【第16話】筆跡鑑定
ライゼンハイマー伯爵家に、切羽詰まった様子のクリスタ・ディッペル子爵令嬢が訪ねてきたのは、週末の午後の早い時間だった。
「セラフィナ、急に押しかけてしまってごめんなさい……どうしても、確かめたいことがあって」
案内された応接サロンのソファに座るなり、クリスタは思い詰めた表情で口を開いた。
クリスタはセラフィナ様のクラスメイトであり、幼い頃からの親友同士である。
「どうしたの、クリスタ? そんな不安そうな顔をして」
セラフィナ様が心配そうに身を乗り出す。
その傍らでは、お嬢様の専属メイドであるマリエラが静かに控え、温かい紅茶をテーブルへとサーブしていた。
「実は……遠距離恋愛をしている彼から、昨日、手紙が届いたの。でも、そこに『他に好きな人ができたから、君とは別れたい』って書かれていて……」
クリスタは少し震える手でハンドバッグから一通の手紙を取り出し、テーブルの上に置いた。
「ええっ!? あんなに仲が良かったのに! 三年生になったら婚約するって、この前嬉しそうに話していたじゃない!」
「うん……そうなんだけど……。毎週欠かさず文通を続けていたんだけど、実はこの一ヶ月間、彼からの手紙がパタリと途絶えていたの。私からは欠かさず送っていたのに、ずっと返事がなくて。何かあったのかと心配していた矢先に、その別れの手紙が届いたのよ」
クリスタはそこで言葉を区切り、テーブルの手紙を見つめた。
「宛名も、中身の筆跡も、間違いなく彼が書いた文字なの。でも……文章の書き方というか、言い回しにどうしても違和感があって。彼が書いたんじゃないかもしれないって……」
「手紙が偽物かもしれないってこと?」
「うん。でも、もし私の勘違いで、彼に直接電話をして『本当に迷惑だ』って言われたらと思うと怖くて……。セラフィナのお父様は騎士団長様でしょう? だから、セラフィナの知り合いの騎士の方とかなら、この手紙が本当に彼が書いたものか調べられるんじゃないかと思って……」
彼女が屋敷を訪ねてきたのは、そういう理由だったのだ。
しかし、その言葉を聞いたセラフィナ様は力強く頷いて、傍らの専属メイドに指示を出した。
「そういうことならお父様たちより、うちの執事長の方がずっと得意よ! マリエラ、すぐにヴァレリアンを呼んできて」
「はい、お嬢様」
マリエラは小走りでサロンを退出していった。
――
数分後。
「お呼びでしょうか、セラフィナ様」
マリエラに呼ばれサロンに到着した私は、クリスタへと静かに一礼した。
「ヴァレリアン。クリスタの彼からの手紙なんだけど、本人が書いたものか偽物か、あなたの力で分からないかしら?」
セラフィナ様から事情を手短に聞いた私は、テーブルに置かれた手紙へと歩み寄った。
胸ポケットから銀縁の片眼鏡を取り出し、右目に装着する。
「クリスタ様。比較のために、彼から以前送られてきた手紙を見せていただいてもよろしいでしょうか」
「はい、これです……いつも持ち歩いている、私の一番のお守りなんです」
クリスタが大事そうに差し出した過去の手紙と、問題の別れの手紙を並べ、私は慎重に文字を観察し始めた。
(なるほど……一見すると非常に精巧に模写されているが、明らかに偽造だな)
私の背後から手紙を覗き込んだマリエラが、不思議そうに呟く。
「ヴァレリアン様、これは偽物なのでしょうか? 私には、どちらも同じ人が書いたようにしか見えないのですが……」
「マリエラの言う通り、文字の形そのものは非常によく似ています。ですが、これは偽造された文書である可能性が極めて高いと断言できます」
私の言葉に、クリスタが弾かれたように顔を上げた。
「ほ、本当ですか!?」
「はい。筆跡から個人を特定する『筆跡鑑定』という技術には、古い歴史があります。ある文献によれば、古代の巨大帝国の皇帝は、文書の偽造対策としてすでに筆跡の識別を試みていたそうです。今から数百年前には、イタリアという国のとある医師が『筆跡には個人差が存在する』という論文を発表し、やがてそれは個人の勘に頼らない客観的な鑑定方法へと進化を遂げました」
私は二つの手紙を指し示した。
「現代の筆跡鑑定において、最も基本となる手法は『同字比較』です。全く同じ文字同士を並べ、その特徴を見比べます。この二つの手紙によく出てくるクリスタ様のお名前、『Christa』という単語を見比べてみてください」
「……少し違いますね。でもどちらも彼の文字だと思います」
「クリスタ様の感覚は、おそらく正しいものです。文字は少し異なりますが、一見どちらも同じ人物が書いたように見えます。ではこの別れの手紙の方だけを見て、何度も出てくる『Christa』の文字に注目してください」
セラフィナ様、クリスタ、マリエラの三人が、別れの手紙を囲むように覗き込む。
「……やっぱり、彼の文字で間違いないと思います」
「そうね、特に不自然さはないんじゃない?」
「うーん、ちょっとおかしくないですか? どの『Christa』の文字も、寸分たがわず同じに見えるんですけど……。ひょっとして、彼の手紙を下に敷いて、それを写した可能性もありませんか?」
「さすがは私の助手ですね、マリエラ。ええ、その可能性は非常に高いと思います。人間は印刷機ではありませんから、同じ人が同じ単語を何度書いても、必ずミリ単位の『自然なばらつき』が出ます。このように寸分違わず一致してしまうことこそが、何かを下敷きにして写した何よりの証拠なのです」
マリエラはニヤつく顔を必死に抑えようとするあまり、口の端がぴくぴくしている。
次に私は、文章の一行をスーッと指で、ゆっくり横になぞった。
「次に文章の一行全体に注目してください。何か違和感を覚えませんか?」
「そう言われれば、なんだか上下に波打って見えるんだけど」
「セラフィナ様のおっしゃる通りです。普通に手紙を書くとき、人は無意識のうちに文章に見えない横の基準線を保ってペンを走らせます。犯人は過去の手紙から単語やアルファベットを拾い集め、紙を少しずつズラしながらツギハギにしてなぞったのでしょう。その結果、全体の空間認識が崩れ、単語同士のベースラインが不自然に上下へと波打ってしまっているのです」
「本当だわ! 言われてみれば、別れの手紙の方は文字がガチガチに緊張しているみたいに見える!」
セラフィナ様が納得したように手を叩いた。
「もっと詳しく調べれば、さらに不審な点が出てくるでしょう。ですが現時点でも、これは彼以外の何者かが書いた偽造文書の可能性が非常に高いと言えます」
私がそう断言すると、クリスタはほっとしたように胸をなでおろし、しかしすぐに怪訝な顔をした。
「でも、一体誰がこんな手の込んだ嫌がらせを……?」
「犯人が彼からの手紙をトレースしたのであれば、クリスタ様の保管されている手紙に触れることができる、屋敷内の人物の可能性も考えられます。クリスタ様、最近ご自身の身の回りで、何か変わったことはありませんでしたか? どんな些細なことでも構いません」
私の問いに、クリスタは少し考え込み、やがてハッとしたように顔を上げた。
「そういえば……この別れの手紙が届いたすぐ後のことなんですけど。いつも手紙を届けてくれる郵便配達員の男性から、突然、私宛の恋文を直接渡されたんです。『ずっとお慕いしておりました』って……」
「別れの手紙が届いた直後に、配達員からの恋文ですか……。一ヶ月間手紙が途絶えていたのも、彼の手紙を開封して、それを使って別れの手紙を偽造したと考えれば、辻褄があいますね」
クリスタは急に恐ろしくなったのか、彼女の顔から少し血の気が引いた。
「クリスタ様、その配達員からの恋文はまだお持ちですか? もしその恋文と、この別れの手紙に隠された『見えない特徴』が一致すれば、彼が犯人であるという決定的な証拠になります」
「えっと、それは……今は恋愛に対して何も考えたくなかったので、すぐにメイドに処分させてしまいました」
クリスタは申し訳なさそうに視線を落とした。
「クリスタ様の屋敷では、紙のゴミはどのように処分されていますか?」
「屋敷内で出た紙類は、重要な書類なども含まれるため、敷地内の裏庭にある焼却場で、まとめて燃やしています。でも週末……今日の夕方に火を入れるはずだから、まだ燃やされていなければ残っているかもしれません!」
「すぐに向かいましょう!」
私は即座に判断を下した。
ライゼンハイマー家の馬車を飛ばし、私たちはディッペル子爵邸へと急行した。
屋敷の裏手、高い石壁に囲まれた焼却場には、屋敷中から集められた紙のゴミが入った麻袋が、うず高く積まれていた。領地運営の書類や日々の生活から出る不要な紙くずの山だ。
幸いなことに、まだ火は入れられていない。
「さあ、探しますわよ! セラフィナ、手伝ってくれますか?」
「ええ、もちろんよ、クリスタ! 手紙のすり替えなんて、絶対に許さないわ!」
なんと、美しいフリルのついたドレスに身を包んだセラフィナ様とクリスタが、躊躇うことなく麻袋の山へと突撃していったのだ。
「お、お嬢様方! お待ちください、ドレスが汚れてしまいます! ゴミ漁りなど、私とヴァレリアン様でやりますから!」
マリエラが慌てて止めに入ろうとする。
「無駄ですよ、マリエラ。騎士団長セオドア様の正義の血が、セラフィナ様にも流れております。私たちも彼女たちとともに、手紙の捜索にあたりましょう」
令嬢二人が書類の山をかき分ける様は、普段の優雅さからはかけ離れているが、真実を求めるその姿は、まるで騎士のような頼もしさがあった。
「見つけたわ! これよ!」
ものの十分ほどで、クリスタがゴミの山の中から、一つの封筒を引っ張り出した。クシャクシャにはなっていたが、それは配達員からの恋文で間違いなかった。
「素晴らしい捜索力です、クリスタ様、セラフィナ様」
私は二人のドレスについた灰や埃を風魔法で丁寧に払い落としながら、クリスタからその恋文を受け取った。
封筒を開け、中身を確認する。
当然だが、配達員が自らの字で書いた恋文と、彼氏の字をなぞって書いた別れの手紙とでは、パッと見の筆跡は全く異なっている。
「ヴァレリアン様、これで犯人が配達員だと分かるのですか? 私が見たところ、文字の形は全然違うように見えますが……」
マリエラが不思議そうに首を傾げた。
「ええ。肉眼で全体を見るマクロの観察はここまでです。これら二つの手紙は、文字の形こそ違いますが、同じ人物が書いたという決定的な証拠が隠されているに違いありません。ここから先は、言い逃れのできない確固たる証拠を突きつけるために、肉眼では見えないミクロの世界の証明が必要になります」
私は三通の手紙を丁寧に胸ポケットへしまい、三人に告げた。
「これから、王都の西の外れにある森へ向かいます。錬金科学研究所で、少しばかり実験をいたしましょう」
私たち四人は、真実を完全に証明するため、馬車に乗り込み、西の森へと向かって走り出した。




