【第15話】毛髪鑑定
王都の騎士団本部。
取調室の近くにある会議室で、ニクラスは眉間にしわを寄せて、真鍮製の美しい顕微鏡を見つめていた。
「それが、真実を暴く道具だと言うのか?」
「ええ。これは顕微鏡といい、肉眼では見えない微小な痕跡を拡大して見るためのものです。これを使うと、対象をなんと『四百倍』にまで拡大して見ることができます」
「よ、四百倍だと……!?」
やはりニクラスも驚きの声を上げた。
「はい。肉眼では一ミリにも満たない細い線が、指の太さほどにはっきりと、その内部の構造まで見ることができるのです」
私はそう説明してから、ルーツに向き直った。
「ルーツ様、比較対象として、あなたの髪の毛を一本いただけますか」
「ボクの髪、ですか? はい、分かりました」
ルーツが自分のネイビー色の髪を一本引き抜き、私に手渡した。
私はそれをガラス板に挟み、顕微鏡のステージにセットする。ピントを合わせ、視界に飛び込んできた構造を確認してから、私はニクラスに場所を譲った。
「ニクラス様、どうかこちらを覗いてみてください」
ニクラスはいぶかしげにレンズを覗き込んだ。
「……なるほど。確かに髪の毛が、ものすごく大きく見えるな。中は透き通っていて……だが特に変わったところはないぞ」
「それが人間の髪の毛の特徴です。人間の毛の中心にある芯、毛髄質という部分は非常に細く、途切れているか、あるいは無いことがほとんどなのです」
私はニクラスに顕微鏡から離れてもらい、今度は証拠品の布切れからピンセットで紺色の毛を慎重につまみ上げた。
「では次に、現場に落ちていたこちらの毛をご覧ください。同じように見える紺色の毛が、四百倍の世界でどう映るか」
先ほどのルーツの髪と差し替え、再び顕微鏡にセットする。
再度レンズを覗き込んだニクラスが、大きく目を見開いた。
「なっ……なんだこの奇妙な模様は! さっきの毛と全然違うぞ! 芯が毛の太さの半分以上を占め、はしごのような独特の模様をしている!」
「お分かりいただけましたね。これが四百倍の倍率があるからこそ見える、内部構造の違いです。つまりこれは人間の毛ではありません。王都の地下水路などに生息する長毛のネズミ、ネイビーラットの毛かと思われます」
「ネイビーラット? つまり獣の毛だと!?」
「はい。合わせてこちらもご覧ください」
私は懐から小さな紙袋を取り出し、中身を机の上に取り出した。
「こちらに来る前に害獣駆除業者に立ち寄って、ネイビーラットの毛を分けてもらってきました」
「確かに、証拠品と全く同じ色だ。……しかし、被害者の足首には毒針の跡があったぞ!」
「あれは毒針ではなく、ネズミ特有の上下二本の門歯による噛み跡です。よく見れば、細い針を刺した跡ではなく、平行に並んだ一対の小さな傷跡だと分かります。おそらく被害者は、過去にも同じネズミに噛まれたことがあったのでしょう」
私は前世の知識を語る。
「人間の体は、特定の異物が体内に入ると、それに対抗しようとする反応が起きます。二度目に同じ異物が入った時、その反応が過剰に起こり、気道が腫れ上がって窒息することがあるのです。これは『アナフィラキシーショック』と呼ばれる急性の重度アレルギー反応です」
「アレルギー……窒息死だと……」
「はい。争った形跡がなく、毒の痕跡も見当たらないまま突然死に至った理由も、それで完全に説明がつきます」
絶対的な科学の証明を前に、ニクラスは呆然と立ち尽くした。
「つまり……事故死か……」
そして小さく息を吐き出すと、ルーツに向き直り、深く頭を下げた。
「……どうやら、我々の見込み違いだったようだ。本当に申し訳ない。あなたは無実だ」
その言葉を聞いた瞬間、ルーツの目から大粒の涙が溢れ出した。
「よかったですね、ルーツさん」
マリエラが自分のことのように涙ぐみ、ルーツを優しく抱きしめた。
前世では十九世紀の中頃に、フランスで起きた殺人事件で、初期の毛髪鑑定が行われた記録がある。
この世界で初めて行われた毛髪鑑定によって、一人の少女の冤罪を晴らせたことは、きっと大きな意味を持つことになるだろう。
――
数日後。
私とマリエラは、再び森の丸太小屋を訪れていた。
森の錬金科学研究所は、以前の惨状が嘘のように掃除が行き届き、美しく整理整頓がされていた。
「ちょっとロザリンドさん! 白衣を脱ぎっぱなしにしないでって言ったでしょ! このフラスコも洗ってないし!」
「うるさいねぇ。アタシは今頭の中で、歴史的な考察の真っ最中なんだよ。片付けくらい後でいいだろ」
「後じゃダメです! 整理整頓こそ、精度と美しさにつながるのです!」
小屋の中では、完全にオカンと化したルーツが、ロザリンドに説教をしているところだった。
あの日、圧倒的な科学の力と、自分の技術を認めてくれた私たちに感動したルーツは、そのままこの研究所の専属クラフターとして仲間入りを果たしたのだ。
二人の共同生活は、思いのほか上手くいっているらしい。どうやら水と油ではなく、凸凹がうまく噛み合ったようだ。
「お邪魔します。ルーツ様、お願いしていたものは完成しましたか?」
私が声をかけると、ルーツはパッと顔を輝かせた。
「あ、こんにちは、ヴァレリアンさん! 完璧な仕上がりです! ボクの自信作ですよ!」
彼女が小さな木箱から取り出したのは、二つの『腕時計』だった。
一つは私のために作られた、洗練された黒い革ベルトの腕時計。
銀製のケース、シンプルな三針でノンデイト、黒の文字盤にバーインデックス、あえての手巻きが私のこだわりだ。
小ぶりの薄型で、この左右対称の文字盤デザインが、心を落ち着かせる。
懐中時計が主流のこの世界において、これほど小型で精密な腕時計は、裕福な貴族でさえも手に入れるのが難しい超高級品だ。
「これは素晴らしい……。私の前世からの趣味が、こんな形で再び手に入るとは」
普段は決して取り乱すことのない私だが、この時ばかりは腕時計マニアとしての興奮を抑えきれなかった。
そして私は、同じデザインで一回り小さい、もう一つの腕時計を手に取った。
「マリエラ。これは私からの日頃の感謝のしるしです。メイドの仕事にくわえて助手として、いつも私を支えてくれてありがとう」
私がそれを手渡すと、マリエラは目を見開き、信じられないものを見るように時計と私を交互に見た。
「えっ……こ、こんな高価なもの……それに、ヴァレリアン様とお、お、お揃い……!?」
マリエラの顔が、みるみるうちに沸騰したように真っ赤に染まっていく。
「こっ、これって、そういうことですよね?! つ、つまり、ぷぷぷ、プロポーーー……」
腕時計を両手で胸に抱き、頭から湯気を上げながら、後ろに倒れていくマリエラ。
「ど、どうしました!? マリエラ!?」
間一髪で受け止めると、彼女は真っ赤な顔で目を回している。
「しばらく風魔法で冷やしてやんな。いや、氷魔法か? あははははっ!」
ロザリンドが面白そうにカラカラと笑い、ルーツがやれやれと肩をすくめる。
(時計をプレゼントしただけなのに……私は何かをやってしまったのか?)
新たな仲間を迎えた錬金科学研究所は、今日も賑やかな声に包まれていた。




