【第14話】顕微鏡
王都の西の外れに広がる鬱蒼とした森の中。
木々の間にひっそりと佇む丸太組みの山小屋の前に、私たちは到着した。
入り口の扉には、最近新しく作られた『ロザリンド錬金科学研究所』という看板が、誇らしげに掲げられている。
「ここは……工房ですか?」
馬車から降りたルーツが、大きな瞳をパチパチと瞬かせながら小屋を見上げた。
「ええ。この世界で最も真理に近い頭脳を持つ、天才錬金科学者の研究所です。さぁ、入りましょう」
私が扉を開けると、そこにはいつも通りの光景が広がっていた。
あいかわらず床には無数の本や書類が山のように積み上がり、机の上には得体の知れない薬品が入った瓶や謎の部品が散乱している。
「汚ったな……」
ルーツが部屋を見回し、呆れたような声を漏らした。
ドスドスと奥から足音が聞こえ、薬品の染みがついた白衣を羽織ったロザリンドが姿を現した。
「ん? 今なんか言ったかい?」
「い、いいえ! なんでもありません! お初にお目にかかります、ルーツと申します! お世話になります!」
ルーツは借りてきた猫のように、深々と頭を下げた。
「アタシはロザリンドだ。よろしく。それで執事さん、今日は以前にも増して大所帯じゃないか。そっちの騎士のお兄さんは初顔だね」
「アシュトン・モンクリーフと申します! 本日は容疑者の監視の任務で同行しております!」
アシュトンが少し頬を赤らめて敬礼すると、ロザリンドは少し眉間にしわを寄せた。
「容疑者の監視だなんて物騒だね。まあいい、アタシの邪魔さえしなけりゃ好きにしな。それで執事さん、今回は何を作るんだい? また面白い仕事を持ってきてくれたんだろうね?」
ロザリンドが目を輝かせて身を乗り出してくる。
私は胸ポケットから、先ほど書いた数枚の紙を取り出し、机のわずかな隙間に広げた。
「今回作るのは、肉眼では見えない微小な痕跡を見るための道具……『顕微鏡』です」
「顕微鏡だって? なんだ、それならアタシのところにもあるよ。ちょっと待ってな」
ロザリンドが棚の上から、ややほこりが被った顕微鏡を手に取り、机に乗せた。
「たまに観察に使うよ。三十倍くらいに拡大できる。ま、ちょっと視界の端が虹色ににじんで見えるけどね」
「残念ですがその顕微鏡では、今回の真実を暴くには倍率が全く足りません」
私は設計図を指差した。
「顕微鏡は、前世の歴史で十七世紀後半、ある商人が布の繊維を見るために、ガラス玉を磨いたのが始まりとされています。彼はその一枚のレンズによる『単式顕微鏡』で、水の中に微生物が泳いでいることを発見しました」
「一枚のレンズ? それって、ただの虫眼鏡じゃないか」
「ええ、原理は全く同じです。しかし彼が作ったのは、数ミリの極小のガラス玉を金属の板にはめ込んだ『特殊な虫眼鏡』でした。彼はそれを直接目に密着させることで、二百倍以上の倍率を叩き出したのです」
「に、二百倍だって!?」
「そしてほぼ同時期に別の学者が、『二枚のレンズを組み合わせた筒』を使って植物の細胞を発見しました。そちらの顕微鏡のように、対物レンズと接眼レンズを組み合わせたものを『複式顕微鏡』と呼びます。今回我々が作るものも同じ構造です」
「つまり今から作る顕微鏡は、これよりもっと倍率が高いってことだね?」
「そのとおりです。しかし初期の顕微鏡には視界の端に虹色のにじみが出る『色収差』という欠陥があります。だから三十倍程度が限界なのです。これを解決し、実用的な顕微鏡が完成するまでには、百年以上の歳月を要しました。今回我々が作るのは色のにじみも歪みもない『真の顕微鏡』、その倍率は四百倍です」
「よ、四百倍!?」
今度はルーツが驚きの声を上げた。
「はい。ですが、その領域に達するには、二つの大きな壁を越えなければなりません。ロザリンド様、色収差を解決するためには、成分の違う二種類のガラスが必要です」
「ほう……二種類……」
「一つは一般的なガラス。もう一つは、酸化鉛を混ぜ込んで作る、重くて屈折率の高いガラスです。この二つのガラスを、一つは凸レンズ、もう一つは凹レンズに削り出し、隙間なくぴったりと貼り合わせる。そうすることで屈折の誤差を打ち消し合う『色消しレンズ』が完成します」
「違う密度のガラスを組み合わせて光の波長を相殺するのか! アタシの錬金術なら成分の違うガラスを精製するのは問題ない。ただ、完全に隙間なく貼り合わせるのは難しそうだね」
「大丈夫です、その点はご心配なく」
少し首を傾げるロザリンドを横目に、私はルーツに向けてもう一枚の図面を見せた。
「そしてもう一つの壁が、顕微鏡の本体構造とピント調節機構です。顕微鏡は高倍率になるほど、わずかな振動で視界がブレてしまいます。そのため重厚な金属の脚と、観察物を乗せる平らな台、すなわち『ステージ』が必要です」
「ステージの真ん中には、下から光を通すための穴を開けるんですね」
図面を見たルーツが、瞬時に構造を理解して呟く。
「さすがルーツ様。さらに最も重要なのがピント調整です。四百倍の倍率ともなれば、ピントが合う範囲は紙一枚よりも薄くなります。筒を手で上下させるのではピント調整は非常に困難です。ツマミを回すことで、筒を0・1ミリ単位で滑らかに上下させる歯車が必要になります」
「回転運動を直線運動に変換する『ラック・アンド・ピニオン』機構ですね」
ルーツが職人としての、自信に満ちた笑顔を見せた。
「これらのガラスの研磨と機構の製作。あなたにできますか?」
「もちろんです! 指輪の中にトゥールビヨンを組み込むのに比べたら、大したことありません!」
「この娘が顕微鏡を形にするのかい? 容疑者ってのはこの娘だろ? まぁ、それはどうでもいいが、この娘にほんとにできんのかい?」
「はい。今回はお二人の力が組み合わさらないと、完成は不可能です」
「なるほどね。あんたが言うならそうなんだろう。……わかった、やるよお嬢ちゃん! こっちにきな!」
マリエラとアシュトンが息を呑んで見守る中、水と油のように見えた二人の天才の共同作業が始まった。
ロザリンドは工房の奥にある炉に火を入れ、ガラスの精製を始めた。
彼女の手によって生み出された二種類のガラスは、不純物が一切ない透き通るような純度を誇っていた。
一方のルーツは、私が用意した真鍮の塊を前に、持参した工具袋から細かなヤスリやノミ、そしてガラスを磨き上げるための研磨剤などを取り出した。
そして彼女は信じられないほどの精密さで真鍮を削り出し、二種類のガラスを丁寧に研磨していった。
(凄い……歴史上の偉人たちが生涯をかけて到達した技術の結晶を、この二人は数時間で再現しようとしている)
私はただ感嘆の息を漏らしながら、二人の作業を見つめていた。
――
数時間の後、すべての部品が机の上に並べられ、ルーツの手によって一つに組み上げられた。
「完成です!」
机の中央に鎮座するその道具は、まさに前世で私が知識として知っている、十九世紀に確立されたアンティークの顕微鏡そのものの姿だった。
「すごく綺麗……まるで工芸品のようです」
マリエラが、真鍮の黄金色に輝く顕微鏡の美しさに息を飲む。
「素晴らしい……お二人とも、最高の仕事です」
私は顕微鏡の前に立ち、ゆっくりと右目の片眼鏡を外した。
そして自分の髪の毛を一本抜くと、プレパラートの代わりとなる小さなガラス板に挟み、顕微鏡のステージの上へと慎重にセットした。
光源となる小さな光る魔石をステージの下に配置し、私は静かにレンズを覗き込んだ。毛は光を通すことで、内部の構造まで観察することができる。
「さあ、見えない世界の真実を暴かせてもらいましょう」
手元のピント調整ネジを、ゆっくりと回していく。
ルーツの削り出した歯車が滑らかに噛み合い、筒が微かに下がる。
ぼやけていた視界が徐々にクリアになり、そして……にじみの全くない完璧な透明度で、肉眼ではただの細い線にしか見えなかった毛髪の内部構造が、くっきりと私の目に飛び込んできた。
「完璧です。倍率も解像度も申し分ありません」
私は顕微鏡から目を離し、ルーツに視線を向けた。
「ルーツ様、あなたの技術は本物です。さあ、これであなたの無実を証明しに行きましょう」
「本当ですか!」
ルーツの表情がパッと明るくなる。
「では、すぐに騎士団本部へ戻りましょう、ヴァレリアン様」
「はい、と言いたいところですが、その前にあるものを手に入れるために、行かなければならないところがあります」
マリエラとアシュトンは、不思議そうに顔を見合わせた。




