【第11話】足跡の保存
昨晩の雨が嘘のように、爽やかに晴れ渡った王都。
馬車の心地よい揺れを感じながら、私は少しだけため息を漏らした。
「お嬢様。やはりブティックへのお供は、私ではなく若い使用人をお連れになった方がよろしかったのではありませんか? 四十九歳の私には、若い女性の最新の美的感覚など到底わかりかねます」
向かいの席に座るセラフィナ様は、少し口を尖らせた。
「もう、またそんなこと言って! 私はヴァレリアンがいいの! 男性の意見も聞きたいし、何よりヴァレリアンの落ち着いたセンスを私は信頼しているんだから」
「……恐れ入ります」
その横で、専属メイドのマリエラが「私もヴァレリアン様のセンスは素晴らしいと思います!」と顔を赤らめながら全力で頷いている。
今日は、セラフィナ様が次のパーティーで着るドレスに合わせる宝石を選ぶため、王都でも一、二を争う人気のブティックへと向かっていた。
ブティックは女性客の熱気で溢れ、優雅なドレスや美しい装飾品が所狭しと並べられていた。
奥のVIPルームに通された私たちに、男性オーナーが直々に挨拶に訪れた。
「ようこそ、セラフィナ様。先日カタログで選んでいただいた宝石を取り寄せましたので、今すぐにお持ちいたします」
このブティックでは、最高級の宝石に関しては本社の金庫に保管し、見たいものをカタログで選んで取り寄せる形を取っていた。
しかしその時、バックヤードの方から「きゃあっ!」という女性の短い悲鳴が上がった。
私たちは即座に立ち上がり、声のした方へ駆けつけた。
「どうかしましたか!?」
「あ、あの……つい先ほど金庫から出して、デスクの上に置いておいた宝石類が……なくなっていて……」
「な、なんですと!?」
オーナーが床にへたり込み、私は素早く周囲を観察した。
バックヤードの奥、裏庭側に面した窓が少しだけ開いている。そしてその窓の真下には、『泥の足跡』がはっきりと残されていた。
私は裏口の扉の鍵を開け、すぐさま裏庭へと出た。
裏庭は昨晩の雨のせいで、土がかなりぬかるんでいる。
その泥の上には敷地を囲う塀の方から点々と続く、はっきりと残された『足跡』があった。
足跡は一度裏口のドアに向かった後、窓の方へと方向を変えていた。
「犯人は細い裏通りから塀を乗り越え裏庭に忍び込み、ドアに鍵がかかっていたから、窓から侵入したのか……」
残されていた足跡は、大きく、深く踏み込まれており、明らかに大柄な男性用のブーツのものだった。
オーナーの高級な革靴、女性従業員たちの華奢なヒール靴とも全く違う。
私は足跡のそばにしゃがみ込み、目を細めた。
前世の記憶が、私に警告を発している。
(早急にこの足跡を保存しなければならない!)
犯罪現場に残された足跡を、石膏を使って立体的に採取し永久保存する画期的な手法。
これを世界で初めて生み出したのは、十九世紀前半にフランスに実在した、元大泥棒にして初代国家警察局長という異色の経歴を持つ探偵だった。
そしてその数十年後、オーストリアの法学者が、それを法廷で通用する犯罪捜査学として完璧に体系化してみせたのだ。
『犯罪現場に残された足跡は、犯人を最も雄弁に語る証拠である』と。
当時の警察は、足跡を見つけてもただ長さを測るか、下手をすれば野次馬に踏み荒らされて終わりだったのだ。
「マリエラ、この足跡を絶対に誰にも踏ませないよう、見張っていてください」
「は、はい! ヴァレリアン様は、どこへ行かれるのですか?」
「私は少し、材料を調達してきます。騎士団の到着を待っている暇はありません!」
私はブティックを飛び出すと、ここへ来る途中に馬車から見えた光景を思い出し、数ブロック先の通りへと走った。
そこでは、道路の石畳を補修する急な工事が行われていた。
現場では十人ほどの作業員たちが汗を流している。
「すみません、少しよろしいでしょうか」
私は手近にいた、体格の良い作業員に声をかけた。
「ああん? なんだおっさん。見ての通り工事中だ、危ねえからあっち行け」
「実はすぐその先のブティックで窃盗事件がありまして。犯人の捜索のために、今あなたがたが使っているその『速乾セメント』を少し分けていただきたいのです。もちろん費用はお支払いいたします」
「はぁ? これは今から使うんだ。それに、俺たちは忙しい。面倒事に巻き込むんじゃねえ、仕事の邪魔だ!」
男はあからさまに嫌な顔をし、シッシと、右手で追い払うような動作をした。
「おい、どうした。揉め事か?」
そこへ、恰幅の良い現場監督らしき男が近づいてきた。
私は姿勢を正し、静かに一礼した。
「ライゼンハイマー伯爵家で執事長を務めております、ヴァレリアンと申します。近くで起きた窃盗事件の、捜査協力をお願いしたく存じます」
「ラ、ライゼンハイマー家だって!?」
現場監督の顔色が変わった。
「馬鹿野郎、お前ら! ライゼンハイマー様にはこの王都の公共事業でどれだけ多大な援助をしていただいていると思っているんだ! もちろんです、必要なものはなんだって持っていってくだせえ!」
現場監督の怒声に、先ほどの作業員は舌打ちをして顔を逸らした。
私は感謝を述べ、セメントの粉、そして混ぜ合わせるためのバケツと木のヘラを借り受けて、急いでブティックへと戻った。
――
「見張りをありがとう、マリエラ。店員の方から、不要になった丈夫な『靴の空き箱』を一つもらってきていただけますか? あ、一番大きいサイズのものでお願いします」
「大きいサイズの靴の箱ですね。わかりました!」
マリエラが持ってきた、しっかりした厚紙の化粧箱を受け取ると、私は懐から小さな折りたたみナイフを取り出し、手早く箱の底をくり抜いた。
「ヴァレリアン様、それは何に使うのですか?」
「これを足跡の周りに被せて、セメントが外に流れ出ないようにせき止める『枠』にするのです」
私は足跡を囲むように底を抜いた空き箱を、ぬかるんだ泥の上に、サクッと差した。
「では、セメントを作りましょう。バケツの粉に水魔法で少しずつ水を加えながら、ヘラでかき混ぜてください」
「はい……わっ、なんだかバケツが温かくなってきました!」
マリエラが驚いて目を丸くする。
「それは『水和反応』という化学反応です。セメントや石膏は、水と結びつくことで結晶化し、熱を発しながらカチカチに硬化する性質があるのです。さあ、固まる前に流し込みますよ」
私はマリエラからバケツを受け取った。
ここでそのままドバッと泥の上に流し込めば、液体の重みと水圧で、せっかくの足跡の形が崩れてしまう。
私は左手に持った木のヘラを足跡のすぐ上に斜めに構え、右手で持ったバケツのセメントを、そのヘラに向けて静かに注ぎ落とした。
ヘラをクッションにして勢いを殺し、セメントをそっと伝わせるようにして、枠の中へと少しずつ、丁寧に満たしていく。
これは前世の科捜研時代に、幾度となく繰り返した基本技術だ。
「すごい……まるで職人技ですね……」
マリエラが感嘆の声を漏らす中、私は足跡が完全にセメントで覆われるのを見届けた。
「あとはこれが完全に硬化するのを待つだけです」
私が立ち上がり、手袋についた汚れを払い取っていた、その時だった。
バンッ!!
ドカドカドカ!
ブティックの優雅な空気を台無しにするような大きな音を立てて、店の入り口から大勢の男達が突入してきた。
「セラフィナ!! 無事か!」
大声を上げて飛び込んできたのは、血相を変えた我が主、騎士団長のセオドア様だった。
その後ろには、ニクラスとアシュトンをはじめとする、完全武装の騎士たちが何人も続いている。
ただの窃盗事件であるはずのブティックは、愛娘のピンチと勘違いして飛んできた親バカな騎士団長の登場により、一気に物々しい空気に包まれたのだった。




