8話
「ってぇ……」
坂口の犬歯が俺の皮膚を引き裂いた。
と言っても、首ではない。咄嗟に差し込んだ俺の手の甲に。
「ぁ、……ぁあ!」
地を這うような呻き声とともに坂口が俺から離れた。カシャンと音を立ててメガネが床を滑っていく。
ふらつきながら一歩、二歩と後ずさった坂口は、そのまま崩れるように膝をついた。口元には俺の手から流れた血が赤く滲んでいる。
「……」
焦点の定まらない目が俺を捉えた。ばちりと視線が重なった瞬間、坂口は再び叫び声を上げ頭を抱え込んだ。
「あぁ! ごめ、ごめんなさい! 僕、ぼくは……」
「落ち着け。俺は何とも、」
「だから嫌なんだ! アルファなんて、バースなんて、何もかも!」
威嚇に似た悲鳴と圧に、俺の喉が無意識に動く。
(流されるな。呑まれるな。まずは……)
「坂口」
「っ……」
ひゅっと息を飲む音が聞こえ、びりびりとした空気が少しだけ和らぐ。
俺は圧に負けながらも、重い身体を無理やり動かし、坂口に少しずつ近づいた。
「よく見ろ。俺はオメガだが、支配されてない」
「……」
「な?」
坂口の目に僅か期待が乗る。今なら話を聞く、そう感じた。
俺は覚悟を決めた。つま先で地を蹴り、一気に距離を詰め坂口の肩を掴む。
鼻先が触れ合いそうな距離に近づくと、坂口の瞳孔が開いた。
「ゃ、やだ! 離れ……」
「俺が何とかしてやる」
勢いのまま言っていた。上手くいく保証なんてどこにもないのに――。
坂口が拒絶する隙も与えず、俺は坂口の後頭を掴んだ。身体が強張ったがもう遅い。俺は力任せに強く抱きしめた。
「っぐ、ぅ……ぁ」
苦しそうな呻き声と一緒に、強い力で俺の腕を掴んできた。服越しだと言うのに立てられた爪が俺の皮膚に食い込む。
拒んでいる。オメガを、俺を。
「へへっ、……嫌だろ? 嫌だよな」
「ッゃ、やめ……」
嫌に決まっている。俺だって嫌だ。現に、目の前はチカチカ明滅してるし、鈍器で殴られたのかと思うほど頭がゆらゆらして重い。
こんな間近で互いの匂いを嗅いで、正気でいられるわけがない。
でも、こうすることしか思いつかなかった。
通常、ラットを起こしたアルファの治療には中和剤を投与する。当然そのようなものを持っていない。ならばどうしたらいいか。
オメガの匂いを嫌と言うほど嗅がせてやろう。
ラットを起こしたアルファはオメガを喰らうまで離さない。
つまり、どんな方法であれアルファが満足すればいい。
俺らしくない、安直な閃き。
ギリギリの賭け。
論理的に破綻した方法に、我ながら笑えてくる。
強張る坂口の身体を労るように何度も何度も撫でながら、坂口の頭に頬を押し付け抱きしめた。
「ゆっくり息をしろ。出来なかったら止めてもいい」
「っ、……っ」
息を吐くたび、坂口の身体が震える。
幾度かの呼吸の後、坂口の身体から強張りが消えていった。俺の腕を強く握っていた手からも力が抜け、いつしかその手は俺に縋るようにただぶら下がっているだけになっていた。
「……はは、出来るじゃねえか」
つい漏れた声は、自分でも聞いたことないほど穏やかなものだった。
患者を救えた喜びか。オメガの自分がアルファよりも優位に立てた自信か。おそらく両者とも当たっていて少し外れている気がする。
だってこの喜びはおそらく――。
「……さん」
「ん?」
胸元から聞こえた声に俺は抱きしめる力を弱めて顔を覗き込んだ、次の瞬間。
坂口が顔を上げ、俺の頭に手が添えられた。何かつぶやかれたこともあって顔を上げると、鼻と鼻が合わさるほど近い距離にいた。
(コイツ、意外と睫毛長いんだな)
なんて変に理性的に思ったのも束の間。坂口の吐く熱い吐息が顔にかかった。
「七条さん」
「っ……」
坂口のとろけた目が俺を見つめている。普段のとぼけた調子とは真逆の妖艶な仕草。鼓動が高鳴る。
俺は一度俯き、ごくりと生唾を飲んで顔を上げた。
「治療、するぞ」
」」」」
」」」」
ザーッと水が流れる音が妙に響く。
トイレの個室に備えられている手洗い場で、俺は汚れた手を洗っていた。初めは水で流し、ハンドソープをつけて念入りに。
医者はよく手を洗う。治療前後、何か触るときも必ず洗う。一日に何度洗ったか、もし数えることがあったら一般人の倍は洗っていると思う。
だから今も、処置後なのだからいつもと変わらない……はずなのに、俺の胸はバクバクと煩いほど脈を打っていた。個室のせいもあって、余計に大きく聞こえる。
水の音と、俺の鼓動の音。そして、自然と漏れる溜息。
店内の換気は済んだ。甘ったるい匂いはもうしないはずだ。手洗いを済ませたら店員を呼んで、後の処理は任せて、帰ろう。
そう覚悟を決めてポケットからハンカチを取り出そうとした、その時——。
コン、コン
戸を叩く音が鳴った。
「っぁ、あ?」
ぼうっとしていたところに突如入り込んだ現実の音。俺は大袈裟に飛び上がって、変な声が漏れた。
「大丈夫、ですか?」
ドア越しに気遣う坂口の声に、俺は「大丈夫だ」とだけ答えた。
坂口は何も答えなかった。
(気まずい……)
ハンカチで手を拭くのをやめ、備え付けの紙ナプキンで乱暴に手を拭き、ドアを開けた。前触れもなく開けたせいか、坂口は驚いた顔をして、すぐに頭を掻いた。さっきまで発していたアルファの気配は、もうない。眼鏡をかけ直していることもあっていつも通りに見える。……一見は。
「ごめ……」
「謝ることはないだろ。お前も被害者だ」
「……」
「店員呼ぶぞ。いいな?」
これ以上この話をしたくなくて、外で待つ店員の元へ向かった。
店員らが呼んだのか、外には血相を変えた店長がいた。俺と坂口を見るなり深々と頭を下げた。
「この度は大変申し訳ございませんでした」
「当然のことをしたまでです。どうか頭を上げてください」
そうこうしている時も坂口は何も言わなかった。いつもの笑みが消えた顔は、ゾッとするほど暗い。
店長との会話もそこそこに俺たちは店を後にした。
夏の入口とは言えジリジリと照りつける太陽につーっと汗が頬を撫でる。天気のせいよりもさっきまでの熱がそうさせている気もする。
坂口は黙ったまま俺の後ろをついてきた。帰るわけでも逃げるわけでもなく、視線を落としたまま歩いている。
「……」
「……」
この様子だと、坂口は自分の末路を理解していると言うことだろう。医者の俺が見逃すわけがない、そう思っているのだろう。
(随分舐められたものだな……)
目的なく歩いていた足を止め、坂口の方に振り返った。光を失った坂口の目がじとっと俺を見つめる。
俺は一歩だけ坂口に近づいて顔を覗き込んだ。
「付き合え」
坂口の答えは待たなかった。下におろされていた手を掴み、俺たちは歩き始めた。




