9話
夕方にもなればひやっとした爽やかな空気になるものだが、今日はどうしてこうも暑いままなのだろう。坂口を連れ立つために掴んだ手が妙に汗ばむ。
カフェから出て十数分。おしゃれな通りを抜けて裏道に入ると目的の場所はすぐにある。
ここは俺の行きつけのラーメン屋。黄ばんだ暖簾と古臭い柱が俺のお気に入り。洒落たものは全く出てこないし、メニューと言えばチャーシューの量が多めか少なめか、その違いくらいしかない。そこもまた好きなところだ。
(まずは腹ごしらえしねえと、何も考えられねえ……)
俺は坂口を連れて店の暖簾をくぐった。
入った瞬間から漂ってきたのは、こびりついた油の匂い。カウンターにいる客は、天井からぶら下がったブラウン管のテレビをぼうっと眺めている。
「らっしゃ……お、珍しい時間に珍客かあ」
声をかけてきたのはここの店主。じいさんは、すきっ歯を隠すことなく豪快に笑いながら手招きをしてきた。
「珍しい珍客ってなんだよ」
「ばっかでぇ! 珍しい時間にっつってんだよ!」
大きな声で話すじいさんに俺は手を振ってこたえ、テーブル席についた。
「おい! 掃除すんのめんどくせえからこっち来い!」
「連れがいんだよ、見てわかるだろ」
「んだと!? 大体なおめえは……」
呆然と立ち尽くす坂口に、俺は顎で座るように促す。
坂口は視線を左右に動かし、やがて椅子に手をかけて腰を下ろした。瞬間、ガタッと揺れた丸椅子に坂口の目が丸くなった。
「ふっ……」
俺はついおかしくなって笑ってしまった。
「こういう店初めてか?」
「え、あ、いや……」
「俺はこの通り常連だから。……ほら、好きなもん選べよ。つっても種類ねえけど」
テーブルに置いてあるピッチャーを片手に壁を指さす。坂口は「すみません」と言いながら、コップを受け取り、壁に貼ってあるメニューに視線を向けた。
さっきまでの出来事が嘘のように坂口の目は凪いでいる。眼鏡越しなのもあるが、鬼気迫るものはない。
「決まったか?」
「えっと……」
「……じいさん!」
「っ!?」
俺の大きな声に坂口はびくっと震えた。
「醤油と味噌、一つずつ!」
「あいよ!」
実質メニューは二つしかないし、俺はどちらも好きだから頼んでしまった。じいさんも相槌を打ってさっさと仕事に戻ったため、坂口は俯いてしまった。
一人の客が「ごちそうさん」と言いながら暖簾をくぐって出ていった。もう一人はブラウン管のテレビを見ながらぼうっとラーメンを食べている。
俺と坂口は何も言わずただ向かい合って座っていた。注文をしてから二人の間に会話はない。坂口はもじもじと身体を動かすだけで、目を合わせようともしてこない。
(カフェではあんな口説いてきたくせに、なんだよコイツ)
つい思って自分に問いかけ、思い出す。途端、顔がカッと熱くなった。
(え、口説く……? 口説かれてたの、俺……)
「っぅ……」
つい漏れてしまったくぐもった声に、坂口がガバッと顔を上げた。
「大丈夫ですか!?」
大袈裟なリアクション。俺は手を振って否定した。
「べ、別に、声が漏れただけ……」
「どこか具合悪いんじゃないんですか?」
「なんともねえって」
「でも……」
「つーか、何で敬語?」
坂口の目が丸くなり、光を失っていた瞳に蛍光灯の明かりが反射する。
「……え」
ここに来てやっと坂口と目が合った。
「無自覚だったのか?」
俺の問いに坂口は一度口を開け、そうしてまた閉じてしまった。眉間に皺を寄せ、唇をかみしめている。
気まずいのは俺だって同じだ。
「……なんか言えよ」
俺は手を組んでテーブルに乗せて姿勢を変えた。テーブルよりもずっと距離がある感じがする。さっきまではあんなに近かったのに。
「……」
坂口はいづらそうに佇まいを直すと、不安げに呟いた。
「……怖がらせた」
そう言って坂口は肩を震わせ、俯いてしまった。
出会った時からコイツのこういうところは変わらない。素直で、優しくて、——自分を殺すことに長けている。
俺はこんな風に言えないし、他人に気をつかうことは出来ない。でも、自分が駄目だと、バース性に縛られていることだけは同じだ。
(映し鏡のようだ)
俺は一つ大きく溜息を吐いて、コップに入ったぬるい水を飲み干した。ガンと音を立ててコップを置くと坂口の顔を覗き込んだ。
「俺は怖いなんて思ってねえよ」
坂口の口が真一文字に結ばれ、弱っていた目が一瞬で鋭いものに変わった。
眼鏡越しでもわかるほど強烈な視線に腹の下あたりがぞわっとした。
「適当なこと言わないで」
「な……」
「君はオメガで僕はアルファ。僕が望めば君は抗えない。さっきだって……」
そこまで言って坂口は勝手に言葉を飲み込み、横を向いた。俺に顔を見せまいとするその姿勢に、俺の堪忍袋の緒が切れた。テーブルを叩き勢いのまま立ち上がって坂口を見下ろした。
「俺がひ弱なオメガだって言いてえのか!?」
「ちがっ……」
「いいや、言ってる! 見ろ!」
噛みつかれた左手の甲を見せつけるように坂口の前に突き出した。
坂口は一瞬怯んだが、唇をかみしめ涙目で俺を見上げた。
「俺はアルファに飲まれていない。俺は、俺の意思で止めた。なのになんだ? お前ときたら自分をまるで信じちゃいねえ」
チン
言い終わるや否や、レジが開く音が聞こえた。
一瞬の間のあと、店主の「ありがとーございやしたぁ」と間の抜けた声が沈黙を破る。
最後の客は、俺と坂口を交互に見ながら出ていった。
「……」
「……」
だって、なんだかどうしようもなくムカついた。ガキの頃だってこんな叫んだことなかったのに、……なんだって言うんだ。
指先がわなわなと震え、俺は崩れるように椅子に座った。ガタンと椅子が傾き姿勢が崩れたが、ギトギトした机に突っ伏して顔を隠す。見られたくなかった。
少しだけ聞こえるテレビの音が返って俺の胸中を虚しくさせる。
「……」
すっと息を吸う音が聞こえ、合わせて坂口の丸椅子がガタッと揺れた。
「……イヤなんだ」
弱々しい声が頭上で鳴る。
「注目されるの。だから、アルファでいたくない」
ポツポツと紡がれる言葉はじっくりと耳を傾けなければ聞こえないほど小さなものだった。
喉から手が出るほど皆が欲するアルファ性をコイツは嫌がっている。理由はわからない。けれど、一つだけわかっていることがある。
俺は手を組んでテーブルに置き、姿勢を変えた。
「理容師になりたいんだろ」
俺の問いに坂口の視線がようやく上がった。期待と不安がないまぜになっていた目が俺を捉え、細められた。
「なりたい」
その声はまっすぐ俺の胸を射抜いた。ブレない答えに俺の中で一つ決断が下された。
まずは、こいつが何に困っているのかを知る。それからだ。
(簡単なことじゃねえか)
ドクっと心臓が脈打つのが分かった。ようやく見つけた答えに俺は興奮していく。
「よし。じゃあ、俺からいくつか質問していくから答えろ」
「え……?」
「いいか、応えられる範囲でいい。嘘はつくな」
戸惑う坂口をよそに俺は聞きたいことを聞きまくった。
一人暮らしか、世話をしてくれる人はいるか、抑制剤の入手方法は、好きな食べ物は、嫌いなものは、休日何をするか……。後半は必要ないことも多かったが、まあ良しとしよう。だって何気ない話になればなるほど坂口が柔らかく笑ってくれたから。
そうこう話しているうちに、俺たちの目の前に二つのラーメンが運ばれてきた。
じいさんはぎろりと俺を見下ろす。なんだよ、と文句を言ってやろうと思ったところでじいさんは坂口に向き直って人の好さそうな笑顔を向けた。
「ほい、おまたせ」
じいさんは颯爽とキッチンの方へ帰っていった。
たしかにしゃべりすぎた感はある。けれど、そんなにおかしなことだっただろうか。
(悪かったな、楽しそうにして)
じいさんの背を穴が開くほど睨んでいると、突然箸が俺の目の前に現れた。
坂口が箸を渡してくれたのかと受け取ろうと手を伸ばした、その時。
「七条さん」
名を呼ばれ、俺の手はどんぶりの上の虚空で止まった。
坂口は目に涙を浮かべながら笑っていた。
「ありがとう」
俺は、箸を受け取るだけで何も言わなかった。




