7話
初めに感じたのはコーヒーの香りではなく、甘ったるい媚びるような匂いだった。
「っ……ヒートか」
オメガの俺でもくらりと視界が揺れるほどの強いフェロモン。店内を想像するだけで背筋が凍る。
このまま逃げるのが正解だ。しかし、医者としての矜持がそれを許さない。それに――。
あいつを、坂口を置いて逃げるなんてできなかった。
「……」
俺は一度息を飲んで、ゆっくりと店内へ戻った。
「きゃぁあああ!」
「逃げろ! 逃げろ!」
初めに見えたのは逃げ惑う人たちの姿だった。その中にもフェロモンに侵された人たちが数人、腰を抜かして悶えていた。
このままここに居続ければ、ベータやオメガだって無事では済まない。
俺は近くを通りかかった店員の肩を掴んだ。店員は目を見開き、すぐに細めると俺を強く睨みながら手を振り払った。
「っにすんだ!」
「俺は医者だ」
その言葉に、店員の視線から鋭さが消えた。
「……は、え。お医者さん?」
俺はゆっくりと頷いて、なるたけ低い声でゆっくりと指示をした。
「まずはお客様を店外へ。その後、火の始末を終わらせ、換気扇、窓を閉めて店員さんも外へ。あと救急車を一台。いいですか?」
「わかりました」
店員は深く頷くと、すぐに他の店員の元へ向かった。店員たちがチラチラと俺を見ては、指示通りに動き始めた。
腰を抜かしてしまった客も、店員や他の客に支えられて店を出ていく。不幸中の幸い。ここにはアルファはいなかったようだ。——ただひとりを除いて。
「はぁ、はぁ……噛んで、ねえ、熱い……」
静まり返った店内に女の甘ったるい声が響く。
ソファの後ろに回り込むとその女と、坂口がいた。
「っ、大丈夫。大丈夫ですよ。僕は、噛まないから……」
坂口は女の頭を抱えるように抱きしめている。
「抑制剤、抑制剤持ってますか?」
「早くぅ、……熱い、熱いの」
坂口の要求はもう女に届いていないようだ。
(あの時の俺も、こんなだったのか……)
気持ち悪い。
「っぐ……ぅ」
胸から沸々とイヤなものがせり上がる。咥内は苦くなり、吐き出したくなる衝動を抑えるように唾を飲み込んだ。口を押さえ、下を向く。ふらついた足で何とか倒れないように踏みとどまると、足元でカチャッと音が鳴った。
「……?」
靴底から滑ったそれは、コロコロと数回転がってソファの足にぶつかって止まった。見覚えのある形状が目に入り、しゃがんでそのものを掴んだ。
「注射器……?」
針がむき出しのそれ。薬液は入っていない。
手の中で転がしラベルを見て、俺の息はコンマ数秒止まった。
”アルファ用緊急抑制剤”
視界がぐらつく。まるで頭を殴られた時のような感覚に、今までの違和感が確信へと変わった。
初めて坂口と相対した時、アルファともベータとも取れない匂いがした。診察時の開示しなかった薬歴と、オメガのフェロモンが溢れる中で正気を保つ異様な姿。
これを今打ったからといって、ここまで理性を保てるとは思えない。——ならば考えられるのは。
少なくともこうなる前に一度打っている。
しかも、この場でもう一度打った。
「……」
すっと短く息が肺に送り込まれる。
俺は注射器の針を隠すようにハンカチで包んでポケットにしまった。
「おい」
声をかける。
坂口は汗だくになりながらゆったりとした動きで顎を上げ、俺を見据えた。その目はどこかぼんやりしている。
「しちじょ、さん」
「わかってる。お前は他のアルファからその人を守ってたんだろ」
「……は、はは。そんな大層なことじゃ――」
「現に二次被害は出ていない。そうだろ?」
坂口の肩が大袈裟に震えた。何か言いたそうに唇が動いたが、女を抱きしめる手に力を込めて俯いた。
「あとは俺に任せろ。いいな?」
「……ん」
坂口が頷いたのを合図に、俺は一歩、二人に近づいた。
しかし――。
「……っく」
俺が近づくと同時に、坂口は鋭い目で俺を睨んだ。
ひゅっと冷たい生唾が喉を通り、背筋に電流のようなものが走る。
アルファの威嚇。獲物を取られまいとする本能からくる現象。オメガである俺が対峙できるはずもなく、足がすくむ。
「ちがう! 僕は……」
焦る坂口の声。
俺は拳を握って遮った。
「っ……け」
「……え」
「ゆっくり、息を吐け」
絞り出すように唸った俺の声が届いたのか、僅かだが俺の身体から強張りが抜けた。恐る恐る顔を上げれば、俯き息を吐く坂口の姿が目に映る。
(無意識に威嚇してきやがったのか、コイツ……)
内心ぼやきながら、俺は次の手に移った。
とにかくオメガのヒートを抑えなければならない。俺は自分のカバンからオメガ用の抑制剤を取り出し、一気に距離を詰めた。
収まっていた威嚇が復活したが、既に俺は二人の前に膝をついていた。
「っし、いいぞ」
自らを奮い立たせるように俺は声を張った。
揺らぐ坂口の目に光が宿る。俺に任せる。そう言っている気がした。
「そのまま押さえてられるか?」
俺の質問に坂口が頷いた。
「いやっ! や! 噛んで、噛んで噛んで……」
女は変わらず叫ぶ。
俺は握っていた注射器のキャップを指で弾いた。誤ったところに打たぬように針先を上に向けて薬液を出す。
坂口が女を抱えたまま、注射できるように腕を差し出した。
俺は露わになった二の腕を掴み、逃げないよう腕を脇に挟んで固定した。その時——。
ふっと、坂口の熱い息が首筋をかすめた。
「っ……」
噛まれる。
一瞬、背筋が粟立った。けれど、俺はわざと坂口を揶揄った。
「噛むなよ」
「……ははっ」
息を飲む音が深く響く。
「まさか」
そう言った坂口の声に余裕はなかった。
互いの呼吸と、女の荒く叫ぶ声。空調はきいているはずなのに、まるで時が止まっているのかと思うほど何も感じない。
一つ息を吐く。覚悟を決めて俺は女の腕に注射針を当てた。
「打ちますよ」
「いやっ、いやぁあ!」
狙いを定める。容赦なく女の肌に針を突き刺した。
「ひぅっ……ぁ」
「ゆっくり息を吐いて、……そう。上手だ。……吸って、……」
刺さった時こそ女は身を固くしたが、抑制剤だと理解したのだろう。あとは俺の合図に合わせて呼吸を整えていった。
やがて、救急車が到着し、女は運ばれていった。
安堵を露わにする店員や客たちを尻目に俺は救急車に乗り込もうとする救急隊員の一人に話しかけた。ラットを、発情しかけたアルファである坂口を搬送してもらおうと思ったからだ。
だが、救急隊員が振り向いた瞬間、救急車の中から無線が聞こえた。
『熱中症患者、多数。現場対応困難。応援を要請します』
がさついた音でも緊迫感が伝わる。その要請に救急隊員の顔色も悪くなる。
優先されるべきは急を要する命。
ここには医者である俺がいる。
でも俺はオメガで、ラットを起こしたアルファを助けられるのか……。
手に汗がじわっと滲む。
「他に何か?」
急く救急隊員の声。
俺は拳を強く握って首を横に振った。
「いえ、よろしくお願いいたします」
「はい、お任せください」
救急隊員は汗を拭って一度頭を下げ、救急車に乗り込んだ。
去っていく救急車を見送ったあと、店員に換気が終わり次第また声をかけるとだけ伝えて、俺は店内に戻った。
途端、オメガの甘ったるい残り香が外に吹き出してくる。
まずは換気をしなければ。そう思って坂口のいた方向に目を向けた。
が、さっきまで座り込んでいたはずの坂口の姿がいない。
「まさか、外……」
背筋にゾッとした何かが這う。
思うより先に身体が動いた。甘ったるい匂いをかき消すように調理場へ走る。
作りかけの料理が置かれている台の中を進みながら坂口の姿を探したが、見当たらない。
更に奥へと進み、スタッフオンリーと書かれたドアを見つけた。
ここにいなければ外、ということか。
覚悟を決めてドアノブを掴もうとした、その時——。
「来ないで!」
鬼気迫る声が部屋の中から真っ直ぐ俺に向けられる。
びりびりと背中から指先にかけて痺れが走る。
「だめ! 入っちゃダメ! ぼ、僕は、大丈夫だから……」
先のものとは全く違う。鼻にかかったような叫び声に、俺の覚悟が揺らいだ。
この扉を開ければ、ラットを起こしたアルファと対峙することになる。オメガの俺が耐えられるわけがない。
一度は掴んだドアノブから手が離れそうになった、——その時。
「あぁ! いやだ、いやだいやだいやだ! アルファじゃない。僕はアルファじゃない。こんなの、……望んでないのにっ」
呪詛のような言葉が何度も何度も叫ばれる。
オメガではないように努める俺と同じ。アルファじゃないと叫ぶその姿が、どうしようもなく哀れに見えた。
(……放って置けねえだろ、こんなの)
離しかけた手に力が籠る。
「入るぞ」
「いやっ、いや!」
ドアノブを捻り、身体ごとぶつかるようにドアを開けた。
瞬間、香ってきたのは嗅いだことのない馥郁たる香り。ラットを起こしたアルファから放たれるフェロモンはこんなに強いものなのかと、慌てて口を塞ぐ。
「っ!?」
ガシャンと何かが落ちる音と一緒に、俺の肩が掴まれた。開けたはずのドアは閉められ、身体は壁に押さえ込まれた。
咄嗟のことに受け身は取れず、壁に頭を強く打ち付けた。視界がブレ、鈍い痛みが走る。肩に何かが乗り、目を開けたときには見慣れたふわふわの茶髪と刈り上げた後頭部だけが視界を占めていた。
紛れもない。坂口だった。
肩に乗った坂口の頭がぐりぐりと俺の肩に押し付けられている。合わせて、フーフーと深く、それでいて早い呼吸を繰り返している。
過剰接種によって心拍数が跳ね上がり苦しいのだろう。
俺はその頭を宥めるように抱き寄せた。
「……っ、ぁ」
じゅわっと脳が溶ける気がした。冷めた思考が一気に焼ける。
こんな間近でアルファのフェロモンを吸って、誰が耐えられるというのか。
俺は自分を守るために呼吸を最小限にしようと口を閉ざした。
(だめだ、吸うな。吸ったら……)
我ながら愚かな判断をした。
息を吸わないようにしよう。そう思えば思うほど息は細かく切れ、呼吸数が増えて行った。
坂口を助けるんだろ。
理性を保て。流されるな。
俺が、俺でなければ……。
一呼吸ずつ、理性が溶けていく。焼き切れるような熱情が波のように押し寄せてくる。
(もう、……)
首に生温かい息が当たった。
続いて、口が開く音が聞こえる。やがてガリッと皮膚を割く音が鼓膜を震わせた。




