6話
先に言っておく。
断じて、アイツに絆されたからじゃない。
髪を切ったあの日。散髪料として金を払おうと財布を出した時、アイツは笑いながら金はいらないと言った。
当然、そんなことを受け入れられるはずもなく俺は払おうとした。でも――。
『僕が勝手にやってることなんだけど、きちんとした理容師になるために50人の人たちにカットモデル頼んでるんです。だから、お金は要りませんよ』
そう言って受け取ってもらえなかった。
でも、借りは返さなきゃ気が済まない。
なんとかお返しがしたいと言ったら、飯に付き合ってくれればいいと言う。
だから来た。それだけだ。
「はあ、すずしぃ」
俺の向かいに座る坂口は、Tシャツの襟を掴んでパタパタと服の中に風を送り込んでいる。ふわふわのパーマがかかった茶髪も暑さで心なしか、しなっとしている。
ここは、駅から少し離れた小さなカフェ。
店内は過度な装飾もなく、木目を基調とした内装だった。ジャズなんて洒落た音楽まで流れていて、不思議と落ち着く。俺一人ならまず入らない店だ。
客はそれなりに入っている。女性客が多い。男もまあ、いるっちゃいるけど女連れだ。俺たちみたいに男二人で来るような場所じゃない。
「ねえ、七条さんはどれにします?」
坂口はテーブルに置かれていたメニューを片手でぐるりと回し、俺の方へ向けた。
「腹に入ればどれでも」
「嫌いなものあります?」
「ない」
「ほら、これとか、これも。セットにするとお得みたいですね」
無骨な指がメニューを指していく。男らしい手のくせに艶っぽいのは理容師だからだろうか。不覚にも綺麗だな、なんて思っちまって俺は一つ咳払いをして、適当に指した。
「じゃあ、これ」
「あぁ、いいですね。じゃあ僕はこっちにしようかな」
俺のつっけんどんな反応にも心折れず、坂口はニコニコと笑いながら答える。
(こんな俺といて何が楽しいんだよ)
「……はお好きですか?」
「え?」
「甘いもの。プラス200円でケーキが付くって」
トントンとメニューが叩かれ、視線を落とした。
セットメニューの横に小さく書かれている。
チョコレートブラウニー、チーズケーキ、モンブラン、本日のおすすめケーキ……。
「……」
じゅわっと咥内が濡れる。
けれど、ここで欲しがったらオメガっぽいかも、なんて思ってしまって、俺は無関心を装ってそっぽ向いた。
「すみませーん」
俺の返答を待つことなく坂口は軽く手を挙げて店員を呼んだ。
ほどなくして店員がやってきて、坂口が淡々と注文していく。俺の分は俺が言おうとしたけれど、坂口は流れるまま俺の分まで言って、そして――。
「どちらもケーキセットで」
(……は?)
「かしこまりました。どちらのケーキに致しますか?」
「ブラウニーと本日のおすすめで」
「はい。では復唱させていただきます。ランチセットの……」
言い返そうにも話が勝手に進んでいってしまい、俺は何も言えなかった。坂口は店員が去っていくのを見送ると、俺に向き直った。その表情はいわゆるドヤ顔。——腹立つ。
「嫌いなものないんでしょう?」
「俺は欲しいなんて言ってねえ」
「じっと見てた」
「見てただけだ」
「好き?」
「あ?」
「甘いもの」
通じているようで全く通じない。
でも、何故か。何故か、ムカつくけれど嫌な気はしない。
睨むように見上げる。視線が合う。レンズの向こう側の目が優しく細められた。
「半分こしたら2つは食べられる。ね?」
そういって、頬杖をしたまま小さく首を傾げて、微笑んだ。
(……何言ってんだよ)
胸の奥が小さく跳ねる。
視線を逸らすように店内へ目を向けた。
改めて、店内が女だらけなことに気付かされる。噛みつかれ防止の首輪をしているものも数名いて、居心地が悪い。俺もオメガだから、本来なら着ける側だ。だが、一度も着けたいと思ったことはない。
「お医者さんて……」
ぽつっと声をかけられ、俺の肩が大袈裟に震えた。
「手先が器用ですよね」
「何の話だ?」
坂口はにっこり笑って唇を指した。何を言ってるんだと尋ねようとした瞬間、はたと気づく。
「っ……」
無自覚だった。親指で自分の唇を撫でていた。
俺は慌てて手を離し、隠すように腕を組んで深く座り直した。なるたけ、平常心であると見せるように。
「べ、つにいいだろ。なんだよ、人のクセ馬鹿にすんな」
「馬鹿になんてしてないですよ。ただ、……綺麗だって思って」
あっけらかんと話していたはずの坂口が突然、小さく低い声でつぶやいたものだから。
胸が苦しい。
あぁ、クソ……。気のせいだ。気のせい。
俺は手を隠すように脇の間に手を埋め込んだ。
「俺は男だぞ? き、綺麗なんて言われて嬉しいわけ――」
「嬉しい?」
「……は?」
「綺麗だよ。会った時からずっとそう思ってた」
歯が浮くようなセリフに呼吸が浅くなるのを感じた。
ここが店じゃなかったらぶん殴ってた。ほんとに。
「……っくそ」
やり返そうとすればするほど空回る。
どうしてコイツの前でだけはこうなってしまうのだろう。
俺は他人に弱みを見せないように生きてきた。身内にでさえだ。そのおかげもあって、他人は皆、俺をアルファだと思って――。
「……」
答えはとてもシンプルだ。
坂口は、俺をオメガ扱いしない。
コイツはバース性ではなく、俺という個を見ている。
(……んだよ、それ)
鼻の奥がじんと痛み、視界がじわっと滲んだ。
さっきまで聞こえていたジャズの音が、今は遠い。代わりに耳奥で何かが鳴って、指先が冷たくなっていく。
「お待たせしましたぁ。アイスコーヒーと、カフェラテです」
店員の声によって俺は一気に現実に戻された。
俺の表情がとんでもないものだったのだろう。店員は驚いたように目を見開いたが、坂口の手がひらりと揺れて、店員は安堵したような表情を取り戻した。
「アイスコーヒー、僕です」
「あ、あぁ、はい」
俺はいたたまれず目の前に置かれたカフェラテのカップを包むように手を添えた。冷えた指先がじんわりと温まる。
店員が去ると、坂口はストローの封を開けてアイスコーヒーのグラスにさした。
「話すと全然違うよね」
「何が」
「印象。病院のホームページの写真だときりっとしてて怖そうな人に見えたから」
「悪かったな。写真写りが悪くて」
「ううん」
気づけば敬語が消えていた。
「二つ年上とは思えないや」
「若く見えるってか?」
「ははっ、プラス思考」
「今のは馬鹿にしただろ?」
坂口はとぼけたように両手をあげて笑った。俺も笑っていた。
何気ない会話。何の生産性もないつまらない話。俺の人生の中にほとんど存在しなかった時間。なんでこんな時間をコイツと過ごしているんだろう。
「七条さんていつもこんな感じなの?」
「あ?」
テーブルの上に置かれた俺の手を見て、坂口は一瞬だけ迷うように視線を落とし、そっと指先で触れてきた。
体温なんて感じるほど触れていないのに、熱く感じる。バクバクと鼓動が耳の中で響く。
「こんなに無防備なの?」
ガタン、と椅子が床を叩いた。俺が勢いよく立ち上がったせいで、椅子が大きく傾き、倒れはしなかったが戻った時に音が鳴ってしまった。
「わ、悪い。トイレ……」
なんとか出た言葉をそのまま放り投げて、俺は坂口の表情を窺うことなくトイレのある方へ歩いた。他の客には見えないように口を覆い、足早にトイレに入ると個室の鍵を閉めた。店内のざわめきが遠い。
小さな店構えにはそぐわない、広めの個室に甘えるように壁に額を当て、身体を預けた。
「……はぁ」
馬鹿みたいだ。思春期のガキかよ。
『綺麗だよ。会った時からずっと』
「……」
そっと自分の唇に触れてみる。
確かにあの時は無意識だった。でも、触れていた理由は――。
(……一度もしたことねえのに)
ざわつく心を落ち着けようと深呼吸をしてみる。だが、そんな簡単に治るわけもなく。
顔を洗えば少しはマシになるか。そう思って個室の鍵に指をかけた瞬間、ガタンッと大きな音が鳴った。
「きゃぁぁああ!!」
女性の叫ぶ声が響いた。続いて聞こえるのは阿鼻叫喚。
さっきまでの穏やかな雰囲気とは正反対の聞き迫る音に、俺は咄嗟に個室のドアを開けて飛び出した。




