5話
「先生!」
変わらないあっけらかんとした声が俺を呼んだ。振り向くとそこにいたのは坂口だった。
坂口は俺だとわかるなり人懐っこい笑みを浮かべながら駆け寄って来た。
あんなことがあったというのに、何もなかったかみたいな反応で。
俺は一歩後退りをして、紙袋を後ろに隠した。
「よかった。人違いだったらどうしようかと」
「……」
とりあえず頭を下げておく。
クリーニングは諦めよう。そう思って踵を返したその時——。ドン、と振り向きざまに人にぶつかってしまった。
「すみませ……」
「気をつけろぉ馬鹿野郎がっ!」
俺の謝罪も空しく、昼間っから酒に飲んだくれた爺さんに盛大に怒鳴られた。ムカつく、そう思う間もなく俺の肩に手が乗っていて、引き寄せられた。
「大丈夫ですか?」
自然と支えようとする坂口の行動に流石アルファだな、なんて感心するもすぐに香ってきた匂いに眉間に皺が寄る。
(くそ、この匂い……)
身体から力が抜ける。発情とは違う、——なんなんだ、これは。
わけのわからない感覚に支配されているとガサッと何かが落ちる音がした。
「っあ!」
「ん?」
我に返るも間に合わなかった。握っていた紙袋が落ち、あろうことか中に入っていた坂口のジャケットが袋から出てしまっていた。
「僕の……」
俺は慌ててジャケットを拾い上げると、睨むように坂口を見上げた。
坂口は俺の威嚇に一瞬ためらったように口を閉ざすも、横にあるクリーニング屋を見て「あぁ」と頷き、俺の前に手を差し出した。
「返しに来てくれたんですね。ありがとうございます」
「は? ……いや」
「クリーニングなんていらないですよ。モールで売ってた安売りのミリタリージャケットだし」
受け取ろうとする坂口の手を避けて、俺はジャケットを抱きしめた。
「ダメだ」
「え?」
「勝手に持ち帰って、洗いもせず返すことなんてできない」
「……」
俺の言葉に坂口は口を閉ざし、そして……。
「ふふっ」
思わず吹き出したように坂口が笑う。
バカにされたような気がした。
目の前がカッと赤くなる。ジャケットごと強く拳を握って睨みつけた。
「借りてそのまま返すわけねえだろ」
「僕は気にしないからいいですよ。ほら……」
「ダメだ」
「頑固だなぁ」
「あ?」
「別に汚れてるわけでもないでしょ?」
ぎりっと奥歯が鳴り、そして――。
「ヒート中ずっと握ってたんだぞ!?」
ザワザワしていた商店街の音がピタッと消えた。視界で動いていた人も、車も、風すら感じない。
実際、この時間はコンマ何秒くらいだったと思う。
(今、俺、なんて言った?)
身体中の血液が一気に顔に集まる気がした。
「あぁ! っくそ」
固めていない髪を乱雑にかきむしり、顔を手で覆った。持っていたジャケットの匂いが鼻から抜けていって、俺はより一層惨めな気持ちになった。
人前では常に理性的であろうと努めてきた。バース性がわかるまえからずっと、ずっとそうしてきた。なのにどうして会って二回目の、患者の男にこんな失態を侵さなければならないのか。
ありがとう、助かった。汚しちまってごめん。
素直に言えば済む話なのに、何かが邪魔してうまく言えない。
バクバクと耳の奥で鼓動音がやけに大きく聞こえる。どうしよう。そう思った時、風に乗って聞こえた坂口の声が俺を現実へと引き戻した。
「ずっと?」
ジャリっと靴が地面を踏む音が聞こえ、気配が動く。俺はジャケットを抱きしめたまま顔を上げた。そこには不思議そうに見つめる坂口がいた。
眼鏡越しに見える目はどことなく鋭い。身体が勝手に強張って動けなくなっていた。
「っ、ちけえ……」
「お返しがしたいのかな」
坂口は、ふっと落とすように笑って続けてこう言った。
「だったら、先生にしかできないお返し、お願いしてもいいですか?」
是とも非とも言わせない圧は、嫌でもバース性を感じさせる。
妙に口の中が渇いて返事が出来ないままでいると、坂口はそっと俺の肩を掴んで引き寄せた。
「ついてきて」
――――
カランカランと古びた鐘の音が響く。坂口の働く理容室に来店すると、壮年の男性客が一人椅子に座っていて、店主の上田さんが散髪をしていた。
上田さんは俺を見るなり目を見開き、すぐに細めて小さく頭を下げた。俺もつられて会釈した。肩に乗っていたはずの坂口の手はもう離れていた。
「じいちゃん、ここ使わせてもらうね」
そう言うと坂口は店の裏側へと消えていった。
声をかけられた上田さんは、白髪混じりの太眉を片方だけくいっと上げるだけで返事をすることはなく、黙々と施術している。
俺はどうしたらいいのだろう。……帰ってしまおうか。いや、それだと逃げたことになるのか?
なんて、自問自答しているところに坂口が戻ってきた。
「じゃあ先生。始めましょうか」
「何を……」
問いながら振り返って後悔した。坂口の見た目がさっきとはまるで違う。
気づかなかった。いや、普通にしていたら絶対にわからない。
ふわふわした茶髪が耳より上で結い上げられる。その下から現れたのは、大胆に刈り上げられた後頭部だった。
それだけでも十分意外だったのに、メガネまで外していた。
メガネ一つで人の印象が変わるなんて大げさだと思っていた。だが違う。レンズの向こうに隠れていた強い眼差しと、少し太めの凛々しい眉が露わになっただけで、目の前の男は別人のようだった。
「先生?」
「は、……」
俺の身体は大袈裟に震えた。
坂口は柔らかな笑みを浮かべながら、施術用の背もたれを掴み首を傾げた。
「どうぞ」
「……」
(ええい、もうどうにでもなれ!)
俺はぎゅっと口を結んで、施術椅子にどかっと座った。
今の今まで抱えていたジャケットは自然ととられ、否を発することは叶わず大人しく従う。
坂口は慣れた様子で椅子を優しく回し、俺の肩にタオルを乗せ、フードを被せた。
「本日はどのように致しましょうか?」
「あ、全体的に3cmくらいずつ切ってもらって、前髪は仕事中オールバックにするから少し長めで」
(なんで普通に答えてんだよ!?)
自分で自分にツッコミを入れる。
俺は髪を切ってくれなんて思ってなかったし、ましてここに来るつもりはなかったというのに。何故かコイツのいいなりに……いや、違う。
心地いい、なんて柄にもなく思ってしまっているのかも。——今はこの気持ちに蓋をしておこう。
「承知いたしました」
坂口はニコッと笑って霧吹きを手に取った。
施術中の坂口は人が変わったように静かだった。笑みを浮かべることもなく、まっすぐに仕事に向き合っていた。その姿は店主である上田さんを彷彿とさせ、初めこそ俺は緊張していたものの中盤から肩の力も抜けて身を預けていた。
ほどなくして先に来ていた客は帰っていった。上田さんは散らばった髪を片付け終えると一言も発することなく裏に引っ込んでしまった。
奇しくも俺がヒートを起こした時と同じ空間。二人っきり。
胸を掻きむしるような焦燥は当然なく、こすけた木の香りと、シャキシャキと髪を切る音。久しぶりに味わう心地よさに、気づけば俺は目を閉じていた。
――――
「いかがですか?」
髪を洗い、髭も綺麗に剃ってもらった。坂口が折りたたみ式の鏡を広げ、俺に後ろを確認させる。
「……いい」
「本当ですか?」
ふうっと大きなため息と一緒に喜々とした声が上がる。そんなに喜ぶことか? と、俺は綺麗になった顎を撫でながら答えた。
「嘘ついたってしょうがねえだろ」
坂口から職人のような硬い表情が和らぐ。続けていつもの柔らかな笑みを浮かべながら、鏡を畳んで片づけた。
「お疲れ様でした」
椅子がくるりと半回転し、出口の方へ向けられる。
無理やり連れてこられたものの、まぁいいか。なんて思っていると――。
「へぇ……」
感嘆の返事が頭上から聞こえた。
見上げると、坂口は慌てたように両手を振って、首まで振った。
「あぁ、深い意味は。……病院の時と印象違うなって」
「それは、そうだろ。医者やってる時とプライベートじゃ。……現にお前だって、カットしてる時の顔、」
そこまでいいかけて俺は口を押えた。
顔が熱い。鏡を見るまでもなく俺の顔は真っ赤だとわかる。
俺は誤魔化すように勢いのまま立ち上がって、坂口の顔を人差し指で指して怒鳴った。
「だ、大体、先生はやめろ。ここじゃ、俺は客なんだぞ!」
俺の威圧をものともせず、坂口は目を丸くして、やがて口元を抑えた。
「名前で呼んでいいんですか?」
「他にどう呼ぶんだよ」
「ふふっ。……じゃあ、名前ついでに誘っちゃおうかな」
そう言って坂口は深呼吸すると、じっと俺の顔を見つめてきた。
散髪をしている時の、あの真面目な表情が眼前にある。俺の呼吸が詰まる。
「七条さん」
聞きなれた苗字なのに、何故か特別に聞こえた。
胸が高鳴ったなんて、絶対に言ってやらない。
「な、なんだよ」
ぶっきらぼうに答えて誤魔化す。
俺の返答に坂口は口を両手で抑えて、もう一度息を大きく吐いて、そして――。
「僕と一緒にご飯でもどうですか?」
その時の坂口の表情ときたら。奴もほんのり頬を赤らめていやがった。




