4話
身体が重く、暗闇に落ちていく感覚にこれは夢だとすぐにわかった。
なによりも目の前の光景に覚えがあったからだ。
オメガだと判明したあの日。
母さんは泣いていた。
バース性の結果を見せた時、母さんは何も言わなかった。気丈に振る舞って何もなかったように接してくれた。
その反動だろう。俺が寝たと思った母さんは声を立てず、静かに泣いていた。父さんはその肩を抱き、優しく宥めていた。
父さんも母さんもアルファだ。当然俺もアルファだと信じていた。他のバース性が、ましてオメガなどと言う結果が出るなど誰が予想できただろうか。
翌日。父さんと母さんはニコニコと笑いながら語りかけてきた。
「成親、バース性で職業は決まらない。お前がしたいこと、なりたいもの。父さんたちは全力でサポートするからな」
「そうよ。言い方は悪いけど、ウチはそれなりのお家だから、なんでも叶えてあげられるわ。何がいいかしら?」
それなりが聞いて呆れる。
七条家は、医家の名門。父も母も医師で、祖父も、曽祖父も、またその前も、ずっと医者だ。その血筋である俺もまた、医者になる。そう思っていた。
何でも叶えるならば何故、医師の道を尋ねない。
じわっと口内が苦くなる。
父さんも母さんも、俺だってわかってる。
実習はどうなる。
ヒートはどうする。
フェロモンを撒き散らす医師を誰が信用する。
(でも、医師になる以外、俺は何になれると言うんだ……)
強く拳を握る。覚悟を決めて俺はゆっくりと口を開いた。
「俺のなりたいものは、変わんないよ」
そう言った時の二人の顔は、安堵から程遠いもののように見えた。そのくせ、父さんはまるでホッとしたように息を吐き、母さんは指を絡めて胸に当てていた。
「そ、そうか。よし。父さんも母さんも、お前が医師になれるよう全力でサポートするぞ。な?」
「え、えぇ。ええ、そうね。成親がそう望むなら、母さんも人肌脱ぐわよ!」
悪意のない差別に、俺は何も言えない。
実際、二人は俺のために出来る限りのことをしてくれた。
バース性に左右されない学校を探し、医師になれる道を用意し、父の病院で研修まで受けさせてくれた。
叶えてくれたのだ、父さんも母さんも。俺が医師になりたいと言ったから。
なんて虚しいのだろう。無力なのだろう。
結局、オメガは一人で生きられない。その事実をただ突きつけられる日々に、俺は息苦しさを覚えていた。
――――
まるでどんよりとした雲が晴れるように、目の前がひらけた。
眠っていた。そう気づくまで時間はかからなかった。
カーテンを閉め忘れた窓から見えるのは群青色の空。あれから数時間も経っていないのだろう。
俺は逃げた。理容室から出て、家に帰ってきた。家の鍵を閉め、ほっとしたところでその手にあったものがなんであったか理解した瞬間、血が沸騰したように熱くなったのを覚えている。
靴を脱ぎ、靴下も脱いで勢いのままベッドに駆け込んだ。きつくしめたズボンのベルトを緩め脱ぎ捨てると、抱え込んだジャケットに顔を埋めて深く、深く息を吸い込んでいたのだ。
(アルファの匂い。アイツの……)
1日と経っていないのだからヒートは明けていない。
とりあえず抑制剤を飲むかと身体を起こした。その時——。
ガシャっと音が鳴った。何かがベッドから落ちたのだ。
俺はくるりとうつ伏せになってベッドの下を覗き込み、息を飲んだ。
「っ……は、ぁ」
ここからでも薫ってくるアルファの匂いに、取り戻しかけた理性は再びなし崩しに失せ、下に落ちていたジャケットを無意識に胸元へ引き寄せていた。
脳が痺れるような甘い誘惑に流されながら、ヒートが明けるまでこんなことを毎日繰り返した。
ーーーー
朝日の眩しさに目を擦り、ぐしゃぐしゃになった髪をかきあげながら窓の外に視線を向けた。
快晴。どこまでも続く淡い青が自然と心も軽やかにする。通り過ぎる鳥たちを眺めながら、ゆっくりと体を起こした。
気だるさの向こう側の、憑き物が取れたような心地よさに、俺は汗でベトベトになった前髪をかき上げて起き上がった。
「……おわった」
解放感からつい声が漏れ出て、自分で自分がおかしく思えて笑った。
頭の中は驚くほど静かだった。数日間、自分を支配していた熱も匂いも、何もかもが遠い夢のように感じる。
俺はベッドから降りて窓を開けた。甘ったるいオメガの匂いはすぐに掻き消え、代わりに清々しい葉の匂いが風によって運ばれてきた。自然と深く息を吸う。
「まずは洗濯だな」
自分に言い聞かせるように頷いて、部屋の方へ振り向いた。
ベッドの上から下まで、好きなだけ散らかした衣服とゴミに爽やかな気分はとたんに消える。だが、いつものことだ。
俺は落ちている衣服に手を伸ばし抱えていった。下着やらタオルやら拾い集めていたところで、ひたっと手が止まった。
あのジャケットが、目に入ったのだ。
「……」
あんなにも執着していたと言うのに、今ではただただ面倒くさい。俺の口からは勝手に溜息が漏れていた。
「どうすんだよ、これ」
ひとりごちたところで答えは出ないが、ぼやくしかない。手を伸ばしジャケットを拾う。洗濯機に一緒に入れて回すか。そう思ったところでまた手が止まった。
「クリーニング、だよな。普通」
借りたものは元よりもいい状態で返す。図書館の本であれ何であれそう思って生きてきた俺にとって、ただ洗濯機で洗うだけではどうしても納得がいかなかった。
ただ――。クリーニング屋はあの理容室の向かいにある。
(大体、クリーニング屋で綺麗にして、礼だけ言ってすまされるのか? そもそも……会いたくねえ)
さっきまでの清々しさは形を潜め、代わりに重く暗い感情がのしかかる。あの時の冷たい声を思い出し、胃の奥が重くなった。
開け放たれた窓から聞こえる人々の喧騒が時を進める。
なかったことにはできない。ならば、やはり綺麗にして何事もなかったように返す。それしかない。
「……よし」
抱えていた洗濯物を洗濯機に適当に放り込んでスイッチを押した。ジャケットはベッドに置き、汗で濡れた身体をきれいにしようとバスルームへ向かった。
ベタついた身体を洗い流し、俺は外へ繰り出した。勿論、坂口から借りたジャケットが入った紙袋を持って。
もしものことを考えてエレベーターには乗らない。階段を軽やかに駆け下りながら、気分は重かった。
他にもクリーニング屋を探した。だが、歩いて行ける距離にあるのは理容室の向かいだけだった。
ヒート明けで電車やバスを利用する気にはなれず、しぶしぶそこに行くことに決めたからだ。
(……どうか、会いませんように)
無神論者のくせにこういうときは神様に願ってしまう。人間ってのはどうも身勝手だ。
クリーニング屋へまっすぐ向かおう。そう思ってマンションの敷地を出たその時——。甘い香りが俺の前に流れてきた。
身体が反射的に強張る。喉がひくりと動いて息が止まった。ヒートは確かに終わっている。なのにどうしてか、身動きが出来ない。
「先生!」
変わらないあっけらかんとした声が俺を呼んだ。




