3話
寂れた商店街の更に寂れた裏路地にその理容室はある。俺はこの理容室が大好きだ。家から徒歩5分と言うところが一番だが、なにより……。
「イケてますね、兄貴!」
錆びた金具が悲鳴をあげて扉が開き、店内からスーツの男が数人出てきた。見るからに表の世界では生きていない風貌の男たちは、真ん中にいるボスらしい男のパンチパーマを見てキャッキャと声を上げていた。
「おうよ。もうここしかねえからなぁ」
「おやっさん、何もしゃべんねえでササーっとやっちまうとことか。~くぅ! 痺れるぜ!」
去っていく男たちの背に俺は一人頷いた。
そう、この店の何がいいって”寡黙な店主”が店を切り盛りしていることだ。
「職業は何ですか?」「アルファですか?」
なんてことも聞いてこない。最高だ。
ぎぃぎぃと異音を鳴らすサインポール。古びた木の扉。窓に貼られたいつのものかわからないポスター。およそ若者が寄り付かなさそうな風貌も俺好み。
「ふぅ……」
アルファの匂いに惑わされぬようにつけていたマスクを外し、一つ深呼吸をした。さっぱりとした春の香り。重ねて薫る古びた木の匂いとパーマ薬液の匂い。俺の気持ちは完全に緩み切っていた。
扉に手をかける。カランカランと鈍い鈴の音が鳴る。外の冷たさに混ざるように店内の空気が風となって頬を撫でる。
古びて暗くなった床板、橙色の照明、コポコポとなる暖房の上のやかん。いつのものかわからない古雑誌、破れた革のソファ。
見渡してみると客らしい人は見当たらない。ラッキーだ。店主が出てくるまでソファに座ろうか。そう思ったところで、ふわっと甘い匂いが俺の前を通っていった。
「あれ? 先生?」
胸の奥がドクッと重く脈を打った。同時にやってくるのは恐怖……いや、興奮だ。
店の奥、カーテンの向こうから姿を現したのは、マスクをしたエプロン姿の坂口だった。
その姿を見るや、俺の身体は全く制御出来なくなった。まるで電撃でも走ったかのように、指先から脳天に向かって何かが駆けあがっていく。昼間に嗅いだ細く甘い香りが否応なしに肺を埋め、自然と眉宇に力が入る。
逃げたい、ここにいたい。離れたい、近づきたい、触れてほしい――。
俺であり、俺ではない何かが囁いてくる。
この感覚は後戻りができない。だってこれはオメガの本能だから。
「っ!」
そう思った瞬間、小さく刻んでいた脈の音がドクンと大きく波打った。腰から全身にかけて力が抜け、気づけば俺はその場に跪いていた。
「大丈夫ですか!?」
近づくアルファの気配。ガタガタと震える身体からは脂汗が噴き出し、指先には変に力が入って冷たくなっていく。呼吸が浅くなり、近づいた坂口の匂いを否応なしに多く吸い込んでしまって、頭がくらくらし始めた。視界が眩む。
(馬鹿。落ち着け。こんな場所で、こんな……)
「先生、もしかして……」
坂口の手が俺の肩に触れる。
瞬間、視界が白く弾けた。同時にガラガラと音を立てて俺の理性が崩れ落ちていった。
近づいた坂口の腕を掴んで強く、強く抱き着いた。仕事着であろうエプロンからも香るアルファの匂い。
(あぁ……だめ、もう……)
直接、脳を揺さぶられているのかと思うほどの眩暈を覚える。理性など遥か彼方に飛んで行って、……いや、違う。欲しい。欲しい欲しい。それだけだ。
「っ……」
息を詰めるような音が聞こえた。ほんの一瞬、迷うような間があったものの坂口は俺を振り払わずぎゅっと抱きしめてきた。
副鼻腔炎で鼻が利かないとはいえ、ここまで狂ったオメガを見て反応しないアルファはいないだろう。
コイツだって、平凡なフリをしてもアルファ。餌を目の前にぶら下げられて食わない獣はいない。
(食う? 俺を? このアルファが?)
無意識に口角は歪み、じゅわっと咥内に甘い何かが湧き出す。
呼応するように坂口の息も上がっていく。抱きしめる力も強くなっていき、俺の耳にマスク越しに鼻先が擦り付けられた。ふっと息を吐く音。それだけで脳が更に溶かされていく。食われる。その現実が俺を更に昂らせる。
坂口の口がゆっくりと開く音が聞こえ、そして――。
「抑制剤、持ってますか?」
囁かれた言葉は、予想の斜め上を行っていた。
「は……?」
「っ……大丈夫、怖がらないで。何も、しないから」
汗を滲ませ俺と同じように本能にのまれそうになっているというのに、坂口は俺を安心させようとぽんぽんと背を優しく叩き始めた。
俺は歯を食いしばり、皮膚に食い込むほど強く坂口の腕を掴み睨んだ。
視線が交わったのは一瞬で、坂口はやんわりと目じりを下げて俺の鞄を見た。
「鞄、触りますよ」
坂口の息が少し止まって、深く吐かれた。そうして俺を片手で抱きながら、反対の手は俺が持っていた鞄へと伸びる。
抱かない、その意志がまっすぐに伝わり俺の中のオメガが悲鳴を上げる。
(なんで、なんで、こんな熱いのに――)
「抱け! 抱けよ!」
理性も何もかもかなぐり捨てた俺の叫びに坂口の動きが止まった。
抱きしめる力が強まり、荒かった呼吸が更に深く吸われ、浅く何度も吐かれる。獣のように喉を鳴らし、本能と理性がせめぎ合う音が溢れる。
(――ほら見ろ。結局、お前も、俺も、本能には抗えな……)
「……抑制剤はどこですか」
ひどく冷たい声だった。
熱かった俺の息が止まる。沸騰しかけた脳が一気に冷え、獣の欲だけとなっていた思考が元の理知的なものへ戻る。
(何をやっているんだ、俺は)
そう己に問うた瞬間、ぷつんと頭の中で糸が切れ、俺はそのまま意識を手放した。
ーーーー
夢の終わりは、細く甘い香りだった。
沸き起こる熱は最早なく、俺は重い瞼をゆっくりと開いた。
初めに目に入ったのは、見慣れない木目の天井。吊るされた電気は前時代を思わせる吊り紐がぶら下がった円状の蛍光管。豆電球がぼんやりと光を灯すだけの薄暗さに、いつのまにか夜になっていたことを知らされる。
寒くもなく暑くもない心地よい室温と、身体に覆い被さる柔らかなタオルケット。スンと鼻を動かすとまたあの香りが鼻腔をくすぐった。
「ここは……」
半覚醒状態の俺の声に、もう一人の気配が動いた。俺はゆっくりと首を動かしてそちらを見ると、そこにいたのはマスクをした坂口だった。
「大丈夫ですか?」
焦っているような、それでいて安堵を含ませた声が問う。
さっきまで溢れていた熱はもうない。襲ってくる欲も、この男への渇望も。
俺は無意識に一つ息を吐いた。
「ごめんなさい。勝手に鞄を漁らせてもらいました。……やっぱお医者さんですね。ちゃんと救急用の抑制剤が入ってて。それで、勝手に打っちゃって、身体変なところとかないですか?」
そう言われて熱がなくなっていることに合点がいった。
この男が、坂口が、アルファのコイツが。オメガの俺を欲のままに貪ることなく、抑制剤で対処してくれたのだと。
救急用の抑制剤は大体注射器の形をしていて、即効性が高い。薬局で普通に出されるものだから、素人でも簡単に扱える。
と言っても、本能剥き出しになった状態で坂口は理性を保って、俺を助けたという事実は不可思議だ。なにより、アルファが何故その注射器の扱いを知っているのか。知識として知っていたとしても咄嗟にそんな簡単に使えるのか?
「先生?」
優しく流れていた空気が、ふと喉を詰まらせた。口内に残った生唾がどろりと這い、喉奥へ流れる。
今はその名で呼ばれたくなかった。だって、あまりにも惨めすぎるだろ。
「っ……!」
一気に現実に引き戻され、俺は震えた身体の反動のまま起き上がった。
ここにいるのは得策ではない。そう思った時にはもう走り出していた。サイドテーブルに置かれていた俺の鞄と、手元にあった何かを握りしめ、逃げ出した。背後から坂口の声が聞こえたが、冷めたはずの熱が戻るような気がして、俺は一心不乱に駆けた。
階段を駆け下り、見つけた己の靴を乱暴に履いて外に出た。
甘ったるい空気が一瞬にして澄んだものへと変わる。ぼんやりした思考はクリアになり、自分が今どこにいるのかはっきりと理解できた。
見慣れた商店街。振り返れば古びた様相の理容室が闇を背負って立っていた。さっきまでは明るかった店内はすでに暗く、俺がいたであろう二階だけがほんのり明るい。
温かい。その色が冷えた思考を一気に燃やした。
「っ!」
見られた、見られた。……本当の俺を。
欲丸出しの、汚く、獣のようにねだる姿を。
俺は、がむしゃらに走った。
店から数分の距離にある十階建てのマンションを見つけると、エレベーターには乗らず五階まで階段で駆け上がった。途中、足がもたれて転びそうになったが、壁にしがみつき、重くなっていく足を必死に持ち上げながら上り切った。
通路の一番奥。角部屋まで着くと、震える手で鞄から鍵を取り出し、鍵穴に向かって突き刺した。カチャリという音と同時にドアを開け、傾れ込むように中に入る。鍵を閉め、チェーンをかける。そこでやっと安堵した俺は崩れるように座り込んで頭を抱えた。
その時、あるはずもない匂いがふわっと俺の前に現れた。
「っ、なんで……」
無意識に掴み取った何かは、坂口が着ていたジャケットだった。




