2話
その男は、どこからどう見ても平凡だった。
背丈もさほど大きいわけでもなく、焦茶色のジャケットを羽織り、中には淡いピンクのシャツ。黒いズボンに、少しくたびれたスニーカー。
ふわふわの癖が強い茶髪は、少しの風でも揺れていて、男の存在そのものを表しているようだった。
ふと、甘い香りが漂ってきて無意識に鼻先が動く。
アルファ? いや、違う。何処か人工的で、歪なその匂いの元がその男だと気づくのに時間はかからなかった。
気づけば俺はその匂いに引き寄せられ、男に近づいていた。
つま先とつま先の距離。1メートルもない。
俺は、ハッとして一歩引こうとしたが、男は眼鏡越しに垂れた目を細めて、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは」
「あ、え……あぁ……コンニチハ」
無言で近寄られてさぞ気持ち悪かっただろうに、男は何ともなさそうに笑っている。
俺はこんがらがる頭の中を整理して、ふと目に映った病院の看板を指さした。
「あと10分もしないで開きますよ」
「あぁ、そうですか。ありがとうございます」
男はさされた看板を見ると一層優しく微笑んできた。
そこで会話は終わり。さっさと離れればよかったのに俺の足はすくんで動けなかった。一歩足を後ろに下げればいいだけ。だというのに、何がそうさせるのか、俺は男を見つめるほかなかった。
男はマスク越しに口らへんに手を当てると、そっと顎を撫でて視線を病院の方へ向けた。
「僕、ここ初めてで。ちょっと緊張しちゃってて」
気まずい空気を割くように男は穏やかな調子で話し始めた。
「じいちゃん、……あ、僕の祖父がね。ここの病院がオススメだって」
「……へぇ」
「まぁ職場から二駅離れてるんですけどね。休憩時間長めに取らせてもらって抜けて来ちゃった」
そう言って男は、後頭をかきながら笑っている。
俺とは違って人懐っこい話し方と対応に胸が苦しくなる。
(あぁ、嫌だ。またやってる……)
オメガである自分を低く見て、周りを上に見てしまう癖が。
そもそもここでこの男と話す理由はない。何故か、そう何故か動けなかったけれど、今なら一歩後ろに下がれる気がする。
そう思って俺は視線を逸らした。その時――。
「実は僕、お医者さんて嫌いなんだ。なんで早く来なかったんだ、とか怒られるから」
落とすように笑ったその声は、どうしてか寂しそうに感じた。
たしかに、怒る医者はいる。ひどくなる前に来てくださいよ、とか研修中に先輩医師がよく言っていた。けれども患者にも来れなかった事情があるに違いない。面倒臭かったというのだって立派な事情だ。
「俺は怒らねえ、かな」
「え?」
「どんな状態でも患者が来たら処置をする。そういうもんだろ、医者ってのは」
さぁっと、葉が揺れる音が大きく鳴る。視線が自然と空に向かい、男に戻した。
男の瞳がレンズの向こう側で僅か開いた。
今まで見せていた柔らかな雰囲気から、鋭さが滲む。
俺の背に冷たい何かが、そう、まるで”のべっと這う”そんな感じの違和感を覚える。
なんだ、これは……。
「お待たせしてすみませぇん」
受付の事務員が現れ、張り詰めていた空気が一気に和らいだ。男は「いえいえ」と会釈しながら院内に入っていった。一瞬だけ見せた何かはもう感じられない。
「あ、お先どうぞ」
思い出したかのように男は振り返って俺に先を促した。
「いや、俺は……」
「僕急いでないんで」
「先生、須藤先生がお呼びですよ」
診察室から出てきた看護師が俺を呼んだ。
案の定、男は目を丸くして看護師と俺を交互に見ると顔を押さえた。
おいおい、まさか俺のこと患者だと思ってたんじゃ……。
「え? せんせい?」
ビンゴ。
「ふふっ」
つい笑ってしまった。知らない奴相手なのに、こんな風に笑えたのはいつぶりだろうか。
俺は口を押さえながら、叔母が呼ぶ診察室へ向かった。
――――
診察時間になると、一番に呼ばれたのはあの男だった。
パソコン画面に出された男・坂口諒平の情報を見ながら、ふと違和感が確信に変わる。
彼はアルファだったのだ。
喉の奥がひくっと引き攣る。
アルファなんて俺の身の回りにはたくさんいた。でも、あの匂いはアルファだから来るものではない。
(いや、治療にバース性は関係ない。投薬歴を確認して……)
自分の考えを否定して、マウスポインターを動かした。タブを切り替えようとしたところで、俺の手は止まった。
『投薬歴開示に同意しません』
表示された言葉は、何も不自然なものではない。
識別番号の中の情報は、ほとんどの人が受付時に全て同意する。
しかし、個別にチェックをすることもできて、訳アリの人は細かくチェックすることもある。
ただ、あの男はアルファで、しかもあんなに穏やかな雰囲気を持っているのに何故、こんな面倒な処理を……。
「坂口さん、どうぞ」
看護師の声で一気に現実に引き戻される。目眩にも似た視界のぐらつきは治り、一つ深呼吸をした。
(仕事だ。仕事)
そう自分に言い聞かせて患者・坂口に向き直った。
坂口は、どこか気恥ずかしそうに頭をかきながら処置椅子に腰を下ろした。動揺する俺とは違って、何も感じていなさそうな彼に、俺は僅かばかり安堵する。
「よ、よろしくお願いします」
坂口は傍から見てもわかるほどかちこちと身体を固めている。
診察は何事もなく済んだ。触診と視診。喉は真っ赤に腫れ上がっていて、カメラを通してみれば白い膿のようなものがあった。相当拗らせた急性咽頭炎だ。
「何か飲んでいる薬はありますか?」
投薬歴拒否でも聞かなければならないので聞いてみる。
さっきみたいに鋭い目で見られたら少し嫌だなと思ったが、杞憂だった。坂口は垂れた目を丸くして首を傾げた。
「特にないです」
「よかった。では喉に薬塗りますよ」
「……はい」
「しばらく痛みますが、飲んだり食べたりは平気なので普通に過ごしてください」
そう言いながら、脱脂綿に染み込ませた液薬を咽頭の奥に塗りつけてやった。
「い゛っ! ぐぅ……」
今までおとなしく治療を受けていたが、触れた瞬間、坂口の肩が大きく震えた。動かないように懸命に手すりに掴まる姿は健気で、この男が本当にいい奴だってのがよくわかる。
「はい、お疲れ様でした」
「っう〜……なんか、ジリジリ? ヒリヒリする……」
「Bスポット治療です。治りは圧倒的に早いんで。……5日分の抗生剤と、あとは喉を潤す薬と痛み止め、痰切り。あぁ、胃薬は必要ですか?」
「……何でも、もらえるものは」
「じゃあ出しますね。あとは吸入して」
「ありがとうございました……」
「お大事に」
さっきまでの緊張が嘘のように、ぐったりした坂口は律儀に頭を下げ、看護師の案内に従って診察室を出て行った。
マスク越しでもわかるほど、細い香りは暫く部屋の中に渦巻いていた。
――――
夕方。
まだ患者が残っていたが、早めに帰された。
いらねえ気づかいだと言ったが、叔母の押しに勝てるはずもなく俺はすごすごと帰るしかなくなった。
裏口から病院を後にして、バスと電車を乗り継ぐ。その間はマスクをしっかりして、アルファの匂いに惑わされないよう努める。
見慣れた人通りの少ない商店街に着くと、気持ちがスッと落ち着くのを感じた。
この街には、俺が医者だとわかるものはいない。その事実が心を軽くするのだろう。
春一番の風が突然吹いてきた。かっちり固めても緩んでしまった鬱陶しい髪の毛が視界の端でチラついた。
「そろそろ切らねえと……」
昔から美容室が嫌いだ。ちゃらちゃらした美容師がダラダラ話してくるし、事あるごとにバース性の話をしてくる。
その点、理容室は静かでいい。堅物の理容師がやるべき仕事だけをする。無駄な会話はない。
それに、あの髭を剃るときの何とも言えないスッキリ具合。しゃばしゃばと泡立つ音も心地いいし、ふわっとした筆毛も好きだ。
(まだ抑制剤も効いているし、いつもの理容室行ってみるか)
今夜から抑制剤を飲むのをやめて一気にヒートを起こして終わらせるつもりだが、まだ余裕はある。懇意にしている理容室はベータの店主が一人でやっているこじんまりとした店。心配はない。
だが、そう思ったのが運の尽きだった。




