1話
春というのは喜ばしい季節である反面、耳鼻科医の俺からすると繁忙期だ。元より年明けからスギ花粉の患者が増え始めているから、今更感はある。
受付の合図で患者が呼ばれて、診察室に入ってくる。機械的に診察をして、賢い患者はその意図を汲み取り必要最低限の話をして治療を受けていくというのに……。
「抗生物質ですって!?」
時々こういう輩が来るから面倒だ。
未就園児の子を膝に乗せながら、治療椅子に座り、目くじらを立てて怒る母親は、まるで仇を見るような目で俺を睨んでいる。
俺は意に介さずパソコンに向かい、薬を入力しながら淡々と答えた。
「何か?」
「先生、知らないんですか? 抗生物質がアルファ因子を殺してしまうって話」
(馬鹿じゃねえの)
言いかけて言葉を飲み込む。喉が引きつるような感覚に、眉間に皺が寄る。
俺はなるだけ平静を装いながら、患者の母親に向き直った。視線が合うと、彼女は目を輝かせた。
「それだけじゃないんですよ。抗生物質を摂取した乳幼児は、摂取していない乳幼児よりも発育が遅れるんです。あと……」
「不服でしたら他の病院へ」
「……は?」
母親の顔色が変わった。
視線を合わせているのも馬鹿馬鹿しくなって、つま先をパソコンの方へ向けた。
「根本治療をしなければ治りません。このままにしておけば中耳炎になる可能性もある。ですが、根拠のない陰謀論を信じて治療なさらないと判断されるのでしたら、おかえりください」
母親はぎゅっと子を抱きしめた。苦しかったのか子どもはわずか眉間に皺を寄せたが、もちろん母親は気づいていない。
彼女はわなわなと震え、そして叫んだ。
「アルファの先生にはわからないでしょうね!?」
診察室の外の話し声がぴしゃりと止んだ。
「もし、先生のおっしゃる通りに治療して、この子がオメガになったら、どう責任を取るおつもりですか?」
(んなことで変わるなら、俺が一番に変えてるっつーの)
舌打ちを飲み込み、俺は努めて落ち着いた声で語りかけた。
「訴えたいならどうぞ」
「なっ……」
「次の患者さんが待っています。いかがされますか?」
母親はダンと地を踏み、立ち上がった。
「結構です!」
そうして子を抱いたまま、母親は出て行った。
俺はパソコンに向かい、カルテを書き直した。
ああいうのはたまに来る。構っていても埒が明かない。
俺は気を取り直して、次の患者を送るように看護師に合図を送った。
しかし、看護師は俺と目が合うと気まずそうに首を振った。
(あぁ、またか)
診察室にいる俺からでもわかるほど、待合室がにぎわっている。なのに次の患者をよこさないなど、普通ならばあり得ない。
俺の反応に困り果てた看護師の後ろから、ベテラン看護師の鈴木さんがやってきて、俺にそっと耳打ちしてきた。
「院長先生ご希望の患者さんだけです」
ぐにゃりと視界が歪む。毎日のことだからもう慣れなければならないのに、身体は素直だ。
それでも俺は気丈に振舞って、一つ溜息を吐いて気持ちを落ち着け、応えた。
「わかりました。何かあれば、声かけてください」
「はい」
鈴木さんは一つ返事をして、後片付けを始めた。つまり、俺には午前の診療はもうないと言うことだ。
彼女の仕事は淡々としている。慰めや、労いの言葉はない。その対応は俺にとって救いだった。感情論の情けはいらない。冷たい方が100倍マシだ。
診察室を後にし、休憩室に向かう道すがら、子どもの泣き声が聞こえた。わめき、叫び、キンキンと耳に響く嫌な音。重ねて謝る母親の声。俺の眉間に皺が寄る。早く通り過ぎようと一歩踏み込んだところで、ガラッと扉が開く音が聞こえた。
「おうおう、元気だねぇ」
その中に突如入り込んだ音。俺の足は自然と止まる。
ハスキーで少し掠れた叔母・院長の声が、勇ましい言葉遣いで場の空気を変えていく。
「いいお口だ。そのまま喉見ちゃいましょうか。……あぁ、うんうん。よし。もういいぞ」
院長の言葉に、いつのまにか子どもの泣き声がやんでいた。
「もう、おわり?」
「おう」
ずびっと鼻をすする音のあと、子どもの笑い声が聞こえた。
「じゃ、薬出しておきますんで」
「ありがとうございます。院長先生のところに来ると、すぐ治るので」
「ははっ、そう言ってもらえると嬉しいねえ。ま、あんま来ないように手洗いうがい、しっかりな」
「はい」
「はーいっ」
ガラッと扉が開いた。
出てきた母親は診察室の前で立ち止まっていた俺に軽く会釈をして、子の手を引きながら待合室の方へ歩いて行った。子どもは目こそ潤んでいたが、病院がご褒美に渡しているシールを大事そうに握りしめて自分の足で歩いていた。
柔らかい談笑。心を落ち着けてしまう手腕。お前じゃ敵わないと見せつけられる毎日。
じわっと手に汗が滲む。咥内が苦くなる。
ここしか居場所はないのに、いたくない。
俺は足早に休憩室に入った。
ドアを閉め、その場に崩れるように座り込んだ。綺麗に固めた髪をかきむしり、荒くなる呼吸のまま自分で自分を抱きしめた。
――――
昼休みに入ったようで、院内はシンと静まり返っている。
俺は白衣を脱いで、机に向かって学術論文を流し見していた。
「おつかれぇ」
そこにさっきまで診察をしていた院長・叔母が気だるそうに入ってきた。白衣は脱いでいて、片手には紙煙草の箱が握られている。
「おい」
「あ?」
俺が凄んだ声を上げたにも関わらず、叔母は低い声を漏らす。
ゆるっとかかったパーマ、鋭くもどこか優しさを残す目元、化粧気のない顔。叔母はパイプ椅子に腰掛け、テーブルに肘をつきながら気怠そうにタバコを咥えた。
「外で吸えよ」
「やだね、私の病院だ」
そう言うと叔母はタバコに火をつけて深く吸い始めた。
ここが地元に根付いた古臭い病院だから許されているだけで、医療現場としてはイカれている。
「俺もここ使うんだぞ」
「窓開けたらいいじゃない」
まず医師としてどうかを聞いているんだが、伝わらない。
叔母は、故郷でもなんでもないこの町で、耳鼻科を開院した敏腕の医師だ。そこは認める。
だが、見ての通り横暴で自由奔放。今のご時世、ぷかぷかタバコをふかす医師なんてそういないだろうに、この女は気にしていないようで休憩とあらば吸っている。
「ちっ……」
言っていても埒があかない。俺は持っていた論文を机に捨てて立ち上がり、窓を開けた。
そよそよと若草の香りが部屋へと吹き込み、多少タバコの匂いが緩和する。肺を埋めるさわやかな空気にホッと息を吐く。
心地よさにつられて俺は窓際に椅子を持っていき座った。買ってきたコーヒーにストローを刺して、メロンパンを食べようとした。
「OLか!」
突然のツッコミ。
大きな声につい身体がビクッと震え、俺はじとっと叔母を睨んでメロンパンを口に含んだ。叔母は大袈裟に溜息を吐いて首を振った。
「そんなもんばっか食べてたら体力つかないでしょ」
「おかげさまで、筋骨隆々なのでご心配なく」
「……ああ言えばこう言う」
「はたから見たらアルファに見えんだからいいだろ」
叔母の目が鋭くなった。無意識に俺の身体が強張る。
叔母は乱暴に携帯灰皿にタバコを押し付けると、テーブルに頬杖をして溜息を漏らした。
「さっさと番ってくれないかねえ」
「誰が?」
「あんただよ」
メロンパンを握っている手に力が入る。
叔母の言うことには一理ある。
番さえいればオメガも、ベータと同じくらい生活しやすくなる。誰かれ構わずフェロモンを撒き散らすことはなくなるし、ヒートだって番のために起きるようになる。
そんなことはわかっている。
でもそれは、獣的本能を受け入れ、恥を晒すことになるわけで。それは俺にとって屈辱以外の何物でもない。
「前から言ってんだろ。叔母さんが噛みついてくれりゃあいいじゃねえか」
「きしょ」
「気色悪くたって一番いい方法だろ」
「私に抱かれたいわけ?」
「馬鹿じゃねえの」
「おあいにくさま、私は旦那がいるんで」
「おじさんはベータだろ。だったら……」
そこまで言いかけて、俺は口を噤んだ。
叔母は「ハハッ」と軽く笑い飛ばすと、人差し指で俺を指してきた。
「さっさと覚悟を決めろ」
俺は答えなかった。メロンパンを素早く食べ終え、コーヒーの空もゴミ箱に捨てて部屋を出ようとドアノブを握った。
「成親」
やけに鋭い声が呼び止めた。
さっき感じた苦味が口内に感じる。あぁ、嫌だと思う前に叔母の言葉が続いた。
「明日から二週間、ゆっくり休むんだよ」
「……わかってる」
変に声が掠れた。
「世間的には、アンタは明日から大学病院で勤務だよ。しっかり務めておいで」
叔母が俺のために作った方便。
3カ月に1回やってくるヒートを誤魔化す方法として、あらゆる理由をつけて俺のために休みを作ってくれている。
慈悲にも似た通告は、俺を更に痛めつける。抗う術のない本能に否とも言えず、休憩室を後にした。ドアを閉めるとき、一瞬だけ流れ込んできた叔母の残り香は、煙草に混じっても尚強かった。
「……」
何度も何度も思い知らされる。次から次へと向かってくるバース性。
俺は、逃げるように外へと繰り出した。
病院の裏口のドアを開け、壁にもたれかかる。すると、チチチ、と鳥がさえずる声が聞こえて、視線は空へと向かった。
「はぁ……」
身体は吐いた分の空気を取り入れようと深く息を吸った。次の瞬間。
知らない香りが俺の前に舞い込んできた。
「……?」
アルファにしては、やけに薄く。
ベータにしては、惑わせるような酒気を帯びた香り。
甘く、それでいてどこか無味で、なんとも形容しがたいそれに、俺の身体は敏感に反応した。鼻はひくっと動いて根源を探しはじめる。
そうして、病院の入り口に視線を向けるとスラリとした体躯の男が一人立っていた。
肩にかからない程度のパーマがかかったふわふわの茶髪が風に靡いている。生垣の新緑の葉を背に立っているため赤茶色のジャケットが一層その男を際立たせている。不覚にも、胸が高鳴った。
男は俺の視線に気づいたようで、此方に顔を向けた。楕円形の眼鏡の向こう側、垂れた目尻を一層下げ微笑みかけてきた。マスクをして表情はわかりにくいはずなのに、優しいその表情に俺の身体は電流が走ったように痺れた。
坂口諒平。
この男が俺の番になるなど、誰が想像できただろうか。




