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幸いを願う心  作者: 粗目
10/10

10.モランのカンテラ




 昼過ぎ、英司から来たメールが不愉快だったので返信しないでいたら夜までに三通メールが来た。二通は返事を促すもの、寝る前に来た最後の一通を眺めたまま、祐悟はため息をついた。

 何度も読み返してはため息をつき、ぼんやりと考え込んでいるうちに朝が来てしまった。英司のことを考えるといつもこうだ、眠ることもできず、かといって解決もないままぼんやりと思考をめぐらすだけで夜が過ぎてしまう。

 冷酷だったり残酷だったり、かと思えばさびしがりの子供のようだったり、命令したり縋ったり。英司の行動も言動も祐悟には一貫性が掴めない。色々な英司が居るかのようで、見極めようとすると酷く疲れる。

 

 布団を畳み、部屋の隅に寄せる。それから窓を開けて軽く畳に箒をかける。今日も客の居ない食堂へ行くと、セツがもうテーブルに朝食を並べていた。


「おはよう、ございます。すみません遅くなりました」

「おはようございます。顔色が悪いみたいよ、大丈夫?」

「大丈夫です。少し寝不足なだけで」

「大丈夫そうには見えないわ。朝のお掃除を終えたらお昼寝なさいな。私は買い物があるから車を使うけど、どこかに出かける?」

「いえ。でも買い物なら俺も行きます」

「今日は重いものを買わないから大丈夫よ。昨日は屋根の雪おろしも庭の雪かきも全部やって、疲れが出たのじゃないかしら」

 

 セツは少し首をかしげて心配そうに眉を寄せた。確かに昨日の雪との格闘で体のあちこちが鈍い痛みを訴えているが、眠れなかった原因はそれではない。しかし祐悟は「そうかもしれません」と相槌を打った。

 食事の後、二人で全室の掃除と洗濯を終え、セツは厨房で蒸しパンを作り食堂のテーブルに載せた。祐悟は寝不足から来る頭痛がだんだん酷くなってきていたから、セツに追いたてられるように部屋に戻らされ、彼女が手早く布団を敷いてくれるのは、むずがゆかったが有難かった。


「目が覚めてお腹がすいたら蒸しパンを食べてね。私は夕食の前には戻るつもりだけれど、もしかしたら外で夕食を済ませてしまうかもしれないわ。日が暮れても戻らなければ、冷蔵庫にあるものを適当にしてね」

 

 セツはそう言い置いて出かけていった。車のエンジン音が遠ざかるのを聞くともなしに聞きながら、祐悟は重い頭を枕に乗せて目を閉じる。けれど眠りは訪れず、頭に浮かぶのは覚えるほど読み込んでしまった英司のメールだ。

 美枝、と唇だけで呟く。もう輪郭も曖昧な女だ。確かにもう彼女には「興味が無い」。そもそも祐悟を捨てた女だ。離婚届に彼女が署名した以上、どこでどう暮らしていようがそれはもう祐悟とは関わりのないことだ。

 けれどそれを英司にあてこすられて腹が立つのは何故なのか、自分が分からなかった。

 

 頭は覚めているが体は眠りを欲していて正直にだるい。寝返りを打って眠りを呼び込もうとして祐悟は、あのマンションで使っていたベッドよりも一回り大きい布団の広さを自分がもてあましていることに気づいた。セミダブルの、さして広くもない布団だというのに、寝返りをうっても転がっても体が布団からはみ出ない、何かに当たることもない。

 そう、英司の体に当たることがない。

 寝返りを打って背を向けるたびに腕を回され体の向きを変えさせられたずうずうしい英司の腕や、背中から腹に回される腕。体を抱き込まれて耳のすぐそばで聞く寝息。

 邪魔だと思っていたそんなものが無くて、自分はたった120cmの幅をもてあましているのだ。

 

 どん! 


 祐悟はたまらず身を起こし、枕を拳で殴った。 



 枕元においてある携帯を開く。昨夜のメール以来、新しい着信は無い。

 そのことが、祐悟には不思議だった。祐悟が何を考え何を言おうとも結局自分のやりたいことを力づくで押し通してきたのが英司だ。最初の最初から無理強いされていたからそれが彼にとっては当たり前なのだと思っていた。

 けれどこの島にやってきた英司は、祐悟の意思を尊重してくれたし、今も恐らくはメールの返事を待っている。

 

(どんな返事をかけば、英司は俺のことを捨てるのだろう)


 英司がカンテラだと思うその光はニセモノだ。祐悟は自分が酷く心の冷たい人間だと知っていた。英司だって分かっているはずだ。強制とはいえ二年も一緒に過ごして相手の名前も仕事も聞かないし興味さえ無かったような男に、何を今更期待しているのか。

 孤独に震えるモランは、むしろ祐悟自身なのだ。

 この手で触れて、愛していた妻を凍えさせた。彼女が逃げたのも当たり前だ。

 英司に触れれば彼も凍るだろう。

 馬鹿な子供。自分が化け物だと信じ込み、カンテラの明かりだと思って近づいたそれが暖かさのない幻影だと気づかない愚かな子供にはきっと、本当のカンテラの明かりが必要だ。それを英司に手渡してやりたいと、この島に来て思ったがそれを渡すのは祐悟ではない。

 

(本当の明かりなど、知らないくせに)


 祐悟は自嘲する。いつからか求めることすら、願うことすら止めてしまった。

 それでも、ほんの少し。

 英司が自分のことを明かりだと錯覚して求めてくるのは、ほんの少しだけ、嬉しかった。英司が求めるものを与えられないのが心苦しいと思うほどには。

 

『さようなら』


 祐悟はそれだけを打って送信し、電源を切った。

 目がさめたらここも出て行くべきだろう。心を切られるような寂しさの中でけれども祐悟はやっと、眠れるような気がした。



 

     □ □ □



 目が覚めたとき、こういう光景には覚えがある、と感じた。

 

 なんということはない。マンションでよくあったことだ。眠っている祐悟のベッドにいつのまにか英司がもぐりこんで、一緒に眠っていてくれればいいものを手を出してくる。

 そう、ちょうどこんな風に祐悟の体の上に馬乗りになって。


「……ぁ?」


 ぱち、ぱちと瞬きして現実を見ようとする。ここはかもめ荘の、祐悟が使っている部屋だ。カーテン越しの光からしてまだ夕方前だろう。セツに布団を敷いてもらったのが昼前のことだったから、数時間は眠ったのだろうがまだそれほどの時間は経っていないはずだ。

 少なくとも飛行機で二時間と、それから巡航船で二時間半かかる。それぞれの待ち時間などを合わせればこの島へ来るのに半日以上は必要だろう英司が一泊もせずに帰ったのはまだ五日前だったはずだ。

 その彼が何故今、自分の上に馬乗りになっているのか、祐悟には状況が把握できなかった。さっき打ったメールを見てやってくるには早すぎる。


「……鍵、締まってたはず…」

「こんなちゃちな鍵なんてすぐに開けられる。あんたが前住んでたマンションよりまだちょろいくらいだ」

「それは犯罪では。…どいてください」

「よく考えたんだ」


 英司があまりに真剣な顔をしているので、何を言い出すのかと祐悟はみじろぐのをやめて英司の顔を見上げた。下から仰ぎ見る英司は、記憶の中にある彼より少し痩せていた。五日前の男はどうだっただろう、と祐悟は回らない頭で思い出そうとするが、あの時は英司を追い返そうと必死で、ろくに顔も見ていなかった。


 考えたんだ、と英司はもう一度繰り返し、祐悟をじっと見下ろす。不意にその顔が緩んだ。


「ものすごい色々考えたけど、もう全部どうでもいい。こうして腕の中にあんたが居るのが俺の幸せなんだ。いつもなんて贅沢は言わないことにする。あんたに俺が許せる範囲の自由も上げるよ。この島で暮らしたきゃ遠距離恋愛も良い……なんでも許すから。逃げるな」

「……、あなたは、勘違いをしているんです」

「ああ、だからもう勘違いでもなんでも良い」

「私は嫌だ。私はあなたが嫌いだし、こんなこと、」

「嘘つけ。あんた俺のことかなり好きだろ」

「その思い込み、どこから来たんですか」

「ここ」


 そういって英司がジャケットのポケットから取り出したのは、彼の携帯だった。祐悟が渡されたのと同機種の色違い。開いて見せたのはメールの受信履歴だ。祐悟のものしかない。けれど所詮は三日間で打ったもの。全部で12通しかない。それもほとんどが日記か呟きか、という内容と量だ。どこに好意をにおわすようなものがあったというのか。

 祐悟がいぶかしげに目を細めると、英司は祐悟の髪や頬を撫で、唇を重ねてきた。

 おとなしく口を差し出すと英司の舌が入り込んでくる。英司の整った冷たい印象を与える顔とは別個の生き物のような、熱く傍若無人な舌。骨ばって指先の細る手がシャツの裾から祐悟の体に触れ、祐悟は避けようと身を捩り、英司の手を止めようと彼の手を掴んだ。


 留められた英司は喉の奥で唸り声を上げる。色素の薄い目がまるで獣のような光で祐悟をねめつけた。これから来る暴力への予感に祐悟は目を閉じる。

 けれどそれだけだ。

 祐悟の知る英司ならば、止められれば膝に体重をかけて祐悟の腹に乗り上げるか、殴りつけるかして祐悟を押さえ込んで捻じ込んできた。

 

「……なァ、ここで待つのが『玩具扱いしてない』ってことなんだろ。すごくキツイけど」


 低く唸るような英司の声。祐悟はそろそろと目をあけて、正面から見下ろしてくる英司を見あげた。

 

「待つ、じゃなくてやめる」

「それは駄目」

「結局変わらないじゃないですか!」

「はは! あんたの怒鳴り声なんて初めて聞いた」


 英司は馬乗りになっていた体を退けた。祐悟が上半身を起こすのを待って、再び口付けてくる。やさしく撫でるようなキスだった。耳に頬に首に英司の手が触れる。無意識に、猫のようにその手に頭を擦り付け、祐悟はため息をついた。


「俺のことを、捨ててください」

「絶対に嫌」

「あなたの言い分は、まるで子供の駄々だ」

「お互い様だろう」

「俺は幸せになりたいんだ」

「俺も」

「あなたの幸せは俺の傍にはないですよ」

「そんなことは祐悟さんが決めることじゃないだろう? 俺の幸せがどんなもんなんだか、あんたは知らない」


 英司は静かにそう囁いた。

 

「祐悟さんが好きだ」



 ああもうそれなら、凍えて死んでも文句は言わないでくれ。


 祐悟の呟きに英司は低く笑って「文句は言わないよ」と耳元で誓った。




     □ □ □



 確か『なんでも許す』と言っていなかっただろうか。

 

 祐悟は自転車の荷台にボストンバッグをくくりつけながら、ほんの数週間前に聞いた男の言葉は幻聴だったのかとため息をついた。

 クリスマスから正月に掛けてかもめ荘はほどほど混み合い、祐悟はセツとともに忙しい日々を送ったが、一月も半ばを過ぎ、三月あたりまでは閑散期らしい、とメールを送った翌日には飛行機の予約番号が送られてきた。

 


 玄関先で見送りに立つセツは、祐悟のため息を聞きつけて笑みを浮かべた。


「三月の半ば頃からはまた忙しくなるから、それまでに戻ってきてね」

「数日で帰ってきますよ。急にお客さんが来て忙しくなったり、何かあったらすぐに知らせてください」

「ええ。そのときにはすぐに戻ってきてね」


 柔らかな笑みを浮かべてセツが答える。長い間一人でやってきた民宿だ。なにがあっても一人で乗り切れるだろうことはお互いが分かっている。甘やかされている、と祐悟は思った。それは胸の奥をくすぐられるような感覚だった。

 モランが二人寄り添うようなものだと、祐悟はかもめ荘でのセツとの暮らしをそう考えていたのだが、このごろ祐悟は、セツの持つカンテラに暖められていると感じている。孤独なモランの手にもカンテラが握られていたのだと、知りつつある。

 それならば自分の手にもカンテラはあるのだろうか。

 

「じゃあ、行って来ます」

「いってらっしゃい。気をつけてね」


 セツが手を振るのに応えて自転車に乗り出発しようとしたが、ふと思い立って自転車を降り、まだ玄関に立っているセツに歩みよって、小さな体を抱きしめた。

 去年の夏の終わりにここに来て、初めて島を出る今になって、何気なく口をついた言葉を自分の耳で聞いて祐悟は気づいた。

 どこにいっても、帰る場所はここなのだ。

 


「いってきます」


 かみ締めるように呟いた祐悟の頭をセツは乾いた暖かな手で撫で、もう一度「いってらっしゃい」と優しい言葉をくれた。

 この言葉でどこにでも行ける、と祐悟は思った。

 そうしてやっと、飛行機のチケットを取られたからとか、命令されたからとかではなく自分の気持ちで、英司に会いに行こう。そう思った。




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