第56話
少し遡り3週間まえ。
「もうええわ!」
オヤブンが珍しく声をあげた。怒りの矛先はなんと冴子だった。
先月初旬、冴子はオヤブンと渋谷で食事をしていた。その際、オヤブンから年末年始の休暇を使って雪山に滑りに行こうと誘われたのである。そこまではいい。だが、行き先について二人の考えがまとまらなかった。オヤブンは初め北海道のニセコはどうかと提案した。しかし冴子は狭いシートの飛行機には乗りたくないという理由でこれを却下した。こんなことはよくある話で、恋人同士、意見が分かれるなんてことは珍しくない。
ところが、冴子はオヤブンの出す提案をことごとく却下したのだ。オヤブンはニセコがダメなら蔵王温泉、蔵王温泉がダメなら苗場、苗場もだめなら志賀高原と、次々と行き先を変えて根気よくプランを提示した。しかし冴子はそのいずれにも快い返事をしなかった。彼女にどこか行きたい場所があったわけでもない。ただ、オヤブンの提案にはっきりとした意思表示をせず、どこどこはこんな悪い書き込みがある、どこどこは食べログの評価が低い、どこどこはレンタル費用が高いなど、いちいち難癖をつけて、挙げ句はこの時期は混むからとダメ出しをした。それにはさすがのオヤブンも気色ばんで、
「年末年始やで。混むのはしゃーないやんか!」
と声を荒げた。
しかし、それでも冴子は、
「混んでない所がいい」
と、無茶な条件を突きつけた。仕方なくオヤブンは提案を変えた。
「それやったら、近場で演劇はしごしよか?」
「劇場も混んでるわ」
これを聞いてとうとうオヤブンが、もうええわ、と切れてしまったのである。
オヤブンは怒って店を出て行ってしまった。
残された冴子は事態が飲み込めず茫然としていた。なぜ自分がオヤブンを怒らせてしまったのかこの時自覚できていなかった。しかし、さすがにショックは隠せなかった。いつも優しいオヤブンが自分にあんな態度を取るなんて・・・。
冴子は表面的には控えめでおとなしい性格であるが、反面親しくなった人に対しては甘えが過ぎる。どこまで自分が相手に許容されるか、試してしまうところがあった。普段押さえているわがままな感情を、隙あるところで発散してしまうのだ。彼女の場合、それが大切なひとに出てしまいがちで慮外に失うものが大きかった。実はこれまでもオヤブン以外に家族や学生時代の親友たちに同じことを犯してきた。そのたびに深い自己嫌悪に陥った。
そんな自分が冴子は大嫌いだった。変えたいとずっと思ってはきた。しかし、そう思いながらもこの嫌いな自分の性格と28年間つき合ってきた。いまさら簡単に変えられるはずがないと諦めている。
大好きなオヤブンを怒らせたことは、時間が経つにつれ傷口が大きくなった。こんな自分なんて消えてなくなればいいのにと思った。やるせなく如何ともしがたい自己嫌悪が体の内側でぐるぐると巡り巡って深く悩んだ。
そして、その晩、鏡の前で、思い余ってリストカットに及んだ。カッターナイフで震えながら薄く手首の表皮を切ってみたが、滲み出した血に怖くなってナイフを投げ出した。自死に踏み切るには勇気が足りなかった。




