第55話
帰りの電車の中。
冴子はシートに座って本を読んでいた。本のタイトルは「虞美人草」。漱石である。さっき駅前の本屋さんで買った。とくに理由などない。思いついたままに取った本である。
冴子が読んでいると、隣の女性が声をかけてきた。
「虞美人草ですよね?」
冴子は読んでいる本を一旦閉じて、隣の女性を見た。それは警戒の目などではなく、むしろとても好意的なものだった。この女性とはもちろん初対面である。
「読んだ? あなたも?」
そう返事をした。ただ単に「そうです」とは答えない。会話が繋がる返し方だった。
相手の女性が嬉しそうな顔をした。
「ええ、いまそれ研究しているんです。わたし」
「研究って、あなた大学生?」
「そうです」
「文学少女ねえ」
「文学っていうほどのものではないんです。じつは演劇をしているんです」
「演劇!? 虞美人草を?」
「わたしの通っている大学に演劇学専攻コースっていうのがあるんです」
「なんだか面白そう」
冴子は彼女に身を近づけた。
「今度の学園祭で虞美人草をやることになって」
「すごい偶然ね!」
「ほんとそうですよね」
「それで、あなたどんな役をするの?」
「甲野欽吾です」
「男役?」
「そうなんです」
「ちょうどいま、宗近一と甲野欽吾が京都で遊んでいるところを読んでいたわ」
「漱石好きなんですか?」
「いま好きになったわ。こうしたきっかけを作ってくれた本だから」
冴子は持っていた本を掲げて一礼した。女子大生はそれを見て笑った。
「よかったら学園祭来てください」
「いつ?」
「来週の土、日が学園祭で、私たちの登壇は土曜日なんです」
「いけるわ。うん、いく、いく」
「ほんとですか。でもチケットいるんですよ」
「そんなの買うわよ。いくら?」
「1枚1000円。高いですか?」
「2枚頂戴。彼氏も連れて行くから」
こんな出会いも起きる。虞美人草を買ったことによって。冴子の運までもが変わったようである。




