聖域の終焉
彼女がホテルの部屋に現れなかったあの日から、二週間が過ぎた。
私は、もはや彼女にメッセージを送ることも、あの薄暗いレビューサイトを覗くこともやめた。
あれは、ひどく出来の悪い白昼夢だったのだ。
分不相応な場所へ足を踏み入れ、身の丈に合わない「天使」を求めた報いだ。
そう自分に言い聞かせ、冷え切った日常へ戻ったつもりだった。
だが、私の中の「熱」は、冷めるどころか、出口を失って体内でじくじくと膿んでいた。
気づけば、私はまた、あの青白い画面を開いていた。
指が勝手に動く。予約枠を確認する。――その日、その時間だけが、ぽっかりと空白になっていた。
心臓が嫌な跳ね方をした。思考が追いつく前に、私はその空白をクリックしていた。
今回はメッセージなど送らなかった。
期待も、感謝も、もう枯れ果てている。あるのはただ、自分を無慈悲に踏みにじった女への、正当な「文句とお説教」という名の、歪んだ執着だけだった。
三度目の、ホテルの部屋。
鼓動は、あの日とは違う重低音を響かせている。憤りが血管を駆け巡り、自分自身を焼き尽くしそうだった。
――ピンポーン。
無機質なチャイムが鳴り、ドアが開く。
そこに立っていたのは、彼女だった。
私の顔を見るなり、彼女の表情が凍りつく。驚きと、気まずさと、微かな恐怖。そんなものが混ざり合った、なんとも形容しがたい歪な顔。
だが、それ以上に私の鼻を突いたのは、彼女から漂う「違和感」だった。
着ている服は、あの日と同じものだ。しかし、
それは無残にシワだらけで、くたびれ果てている。
そして、彼女がソファーに腰掛けた瞬間、
鼻腔を刺すような、きつい、
淀んだ臭いが部屋に広がった。
何日、この服を着続けているのか。何日、風呂に入っていないのか。
そこにあるのは「天使」の残骸ではなく、生活の荒廃そのものだった。
引き返すチャンスは、いくらでもあったはずだ。この異臭に気づいた瞬間に、踵を返すべきだったのだ。
それなのに、私の口から飛び出したのは、制御不能になった怒りの言葉だった。
「ねえ、なんでこの前、来なかったの?」
彼女は黙り込む。
「楽しみにしてたんだよ。一人でここで、どれだけ待ってたか分かる? きちんとしてくれないと、こっちだって困るんだよ!」
一度溢れ出した言葉は、もう止められなかった。問い詰めるごとに、自分の心が醜く肥大していくのを感じる。
すると、彼女は俯いたまま、ポツリと、けれど鋭い声を漏らした。
「……ねえ、この前、他の女の子と遊んだでしょ?」
胃の辺りが、キリリと痛んだ。なぜ、彼女がそれを知っているのか。
「……関係ないだろ。私が何をしようと。君が来なかったのが先じゃないか」
「私だけを見てくれるって、
言ったよね? 裏切りだよ」
彼女の声が、次第に荒ぶっていく。
「裏切りだ! 傷ついた。私、もうどん底だよ!」
同じ言葉を、呪文のように繰り返す彼女。その瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
演技なのか、本物なのか。
目の前で泣き崩れる「異臭を放つ天使」を前に、私は途方に暮れた。激しい怒りは、いつの間にか、行き場のない共感へと変質していた。
「もう、今日帰る! 裏切りだ、もうヤダ!」
泣き叫ぶ彼女の、シワだらけの背中を、私は思わずさすっていた。
「……悪かったよ。ごめん。もうしないから」
気づけば、私までもらい泣きをしていた。
私たちは、腐敗した空気の中で、互いの体温だけを頼りに、無言で抱き合い続けた。それは情欲というより、泥沼の中で溺れる者同士の、必死の生存確認だった。
数時間が経ち、ようやく嵐が去ったあと、私は彼女に伝えた。
「もう、お店で会いたくない。……
LINE、教えてくれないかな」
彼女は、消え入りそうな声でIDを教えてくれた。
これで、より深く、より逃げられない場所で彼女と繋がれる。絶望の隣で、私の鼓動は再び、高鳴り始めていた。
「一時間、壱萬円なら……会えるかも」
彼女の口から漏れた、あまりにも淡々とした値段設定。
ああ、そうだよな。そういう関係なんだよな、私たちは。
自分を納得させるのに精一杯の私に、彼女はスマホの画面を見せてきた。
「私のこと、忘れないでね」
送られてきた自撮り写真は、悔しいほどに可愛かった。
街を歩けば、誰もが振り返るような輝きが、
そのデジタルデータの中には閉じ込められていた。目の前の、シワだらけで異臭を放つ彼女とは、まるで別人のように。
「そろそろ時間だね……ごめんね、こんなになっちゃって。今度、埋め合わせするから」
別れ際、彼女は熱い抱擁と、唇に軽く、けれど確かな感触を残して去っていった。
「またLINEするね。今日は、ありがと」
一人残されたホテルの部屋で、私は複雑な泥に沈んでいた。
「もう会わないほうがいい」
そんな直感は、確かにあった。
だが、背中に残る彼女の体温と、
スマホの中に居座る彼女の笑顔が、
その直感を無慈悲に塗り潰していく。
私は、また一歩、底の見えない沼へと足を踏み入れた。




