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転落の果実

 その日は、いつになく空気が重く澱んでいた。 


二週間。

彼女がホテルの部屋に現れず、

私の「聖域」が灰に帰してから、

私は死んだような日常をなぞっていた。

 

 もはや彼女を追うことも、あのブルーチーズのような異臭の残像を振り払うことも諦め、

妻と娘の待つ温かな家庭という名の

「正解」に身を浸していたはずだった。


 だが、その沈黙は、スマートフォンの無機質な振動によって、あまりにも呆気なく砕かれた。


15:02

彼女: この前はほんとにごめんね

彼女: ちょっといろいろあって……親とももめちゃったし、電気もガスも止まっちゃって

15:03

彼女: パニクっちゃった……

 

 網膜に焼き付く文字。

 「電気もガスも止まった」という、あまりにも生々しい生活の崩壊。


 その瞬間、私の脳裏に鮮明に蘇ったのは、シワだらけの服を着て泣き崩れる彼女の、あの折れそうな背中だった。


 理性は「これは罠だ」と警鐘を鳴らす。


 だが、私の「闇」は、その崩壊した生活の匂いに、狂おしいほどの安らぎを感じてしまった。


 指先が、熱に浮かされたように動く。


15:15

私: 大変だったんだね

私: 大丈夫だよ、気にしてないから


 完全に強がっている、自分。

 気にしていないわけがない。

 この二週間、

 私は出口のない迷路を彷徨っていたのだ。


 ただ、彼女からの連絡があったという、その一点だけで、私の心臓は不純な高鳴りを上げ、視界が白く霞んでいく。


 そして、一分も経たぬうちに、追い討ちのような即レスが届いた。


15:16

彼女: 今度いつ会える?


 喉の奥が、ひどく乾いた。

 もう会わないと誓ったはずの決意が、砂の城のように崩れ去る。

 妻の微笑みが、娘の寝顔が、遠い異国の風景のように色褪せていく。


 理性よりも本能が、倫理よりも渇望が勝った。

 それは、地獄の底で鳴り響く「転落の鐘」そのものだった。

 まやかしだと、わかっていた。


 天使の仮面を被った悪魔かもしれない。


 それでも、私はその毒を孕んだ甘い果実を、食べずにはいられなかったのだ。


 「男の甲斐性」……。

そんな泥だらけの言い訳を、自分という名の「馬鹿者」に言い聞かせながら。


15:25

私: ん…全然考えてなかったけど……

私: いつにしようかな。ちょっといろいろ探すから、またメッセージするね

15:26

彼女: 待ってるね!

15:27

私: うんうん。

 絵文字の一つもない、四文字。


 そこに温度があるのか、それとも単なる作業的な事務連絡なのか、私にはわからない。


 もしかしたら、彼女は私を嫌っているのかもしれない。

 それでも、私は同じように絵文字を排した冷たい返信を送り、片道切符を握りしめた。


 窓の外、五月の雨は激しさを増していく。


 私は、自分がどこまで堕ちていくのかを自覚しながら、同時に、その底なしの闇に身を投じる快感に、深く、深く、溺れていった。

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