第2話 葛藤
「この家以外、人が住める建物はないわ。どうやって生活するつもり?」
さすがのタラサも見過ごせないと思ったのか、真剣な面差しでディナトを引き留めんとした。
「しばらく安静にしていないとだめよ」
タラサがディナトの手を掴む。その瞬間、ディナトは反射的に彼女の手を払いのけた。
「ディナト?」
「す、すまない」
ばつが悪い面持ちで、ディナトは彼女に背を向けた。
そんなディナトの様子に、タラサは切なさを帯びて言った。
「私がセイレーンの血を継いでいるから、危険だと思って距離をおこうとしているのね」
「それは……」
「そう、よね……。人間にとって、セイレーンは人を誑かして捕食する魔物。そんな印象を持っているから、危険だと思うのも当然だわ」
「違うのか?」
「セイレーンの声や歌声が特殊なのは間違いない。でも、人を捕食するなんてことはまずありえない。憶測だけど、昔の人間が子どもたちを守るために付け加えた嘘なんじゃないかしら」
もし、タラサの言葉が本当だったとしたら。
人間は何の罪もないセイレーンたちを虐殺していたことになる。彼女から愛する両親を奪わなくて済んだ。
――タラサを信じていいのか……。
これすらも自身を惑わすための虚偽だったとしたら。
考えれば考えるほど頭に負担がかかり、ディナトは頭を押さえてその場にうずくまってしまった。
「ディナト!」
「大丈夫、だ」
「顔が真っ青よ。やっぱり早くベッドに……」
「いや、俺はここにいるわけには――」
「もう、いい加減しなさい!」
突として張り上げられた声に、ディナトは驚愕した。
タラサは眉を吊り上げ、明らかに怒っていた。
「私のことがそんなに信じられない? 仮にセイレーンが人を喰らう魔物だったとしたら、とっくに私はあなたを殺しているわ。そもそもあなたを助けてなんかいない」
彼女の言い分はもっともだった。
ディナトはタラサの純真な善意を踏みにじったことを後悔する。
「そう、だな……。疑ってしまって、本当にすまない」
「こちらこそ大声を出してごめんなさい。ディナトは何も悪くないわ」
タラサは怒りを消し去り、元の微笑を浮かべて彼に手を差し出した。
ディナトは彼女の手をとり、ベッドに腰を下ろした。
「もしよければ、どうして海を漂流していたのか、聞いてもいいかしら」
タラサが不思議に思うのも当然だ。
ディナトはこれまでの経緯を語って聞かせた。
憎き海賊たちに為す術なく敗れ、不甲斐なく海に投げ出されてしまったこと。また自身が海賊を恨む理由も彼女に打ち明けた。
タラサは悲哀混じりの表情で、ただ静かにディナトの言葉に耳を傾けていた。
「そうだったのね。話してくれてありがとう」
「いや。気の良い話ではなかったが」
そこでディナトの腹の虫が鳴った。
このタイミングでなぜ腹が鳴るのかと、ディナトがわずかに頬を紅潮させているとタラサはくすりと笑みを零した。
「ご飯作ってくるわね。ゆっくりしていて」
「すまない」
「さっきから謝ってばかりね。もう『すまない』は禁止よ」
タラサはウインクしながらそう言い、キッチンへと足を向けた。
彼女が鼻歌を歌いながら料理する後ろ姿を見て、ディナトは口角をあげた。
*****
タラサの献身的な看病により、ディナトの傷は順調に癒えていった。
まだ本調子には戻っていないので激しい動きはできなかったが、毎日外で散歩してなまった体をほぐした。
「綺麗だな」
浜辺に打ち上げられていた木片に腰かけ、ディナトは青空と青海を仰ぎ見る。
打ち寄せる波音、カモメの鳴声。心地よい自然の音色が染み渡る。だが、何よりもディナトの心身を癒やしたのは――
「――――――――♪」
タラサの朗々とした歌声だった。
見れば、彼女はセイレーンの姿で岩礁に腰かけ、絶唱している。
岩礁の下にはイルカやウミガメを始めとした海の生き物たちが集まり、彼女の歌に聞き入っていた。
その光景は一枚の絵画のようで、ディナトは見蕩れる。
ふと、タラサと視線がかち合った。彼女はいつもよりあどけない笑顔でこちらに手を振った。ディナトも目を細めて手を振り返す。
――ああ、いつまでもここにいたい。
タラサの歌声を聞いていたい。タラサのそばにいたい。
そんな想いが芽生えはじめていることに気づき、ディナトは首を横に振った。
「俺はいま、どう思っていた……?」
まるで、タラサのことを好いているような心境だった。
己が抱き始めている感情に、ディナトは困惑する。そして、己を戒めた。
「俺には倒さなければならない敵がいる」
忘れてはならない。故郷を焼き、家族や友人を殺した憎き海賊たちを。
「それに、彼女はただ善意で助けてくれただけだ」
結ばれたい、ともに過ごしたいと欲をかくのは分不相応。彼女もこんな助けられただけの男に好かれても困るだけだろう。
「早く治さなければ」
来たるべき別れの時に備える。
ディナトは腰を持ち上げて、再び浜辺を歩こうとした。だが、その足をタラサの歌声が留める。
ああ、どうしても振り向いてしまう。聞きたいと思ってしまう。
一度、魔性の歌声を耳にしてしまったら最後。
人は魔魅を追わずにはいられない。




