第1話 魔性の歌声
歌が聞こえた。
波音が鼓膜を揺さぶるなか、明瞭に、朗々と――その蠱惑的な歌声は大海に響き渡る。
――誰、だ……?
ディナトは重い瞼を辛うじて持ち上げた。
おぼろげな視界。それを覆うのは一面の群青。陽光の下で煌めく青海。
しかし、そのなかに天を穿つ勢いでそびえ立つ大きな岩礁があった。そのうえで黄金の長髪がたなびいている。
「―――――――――♪」
ディナトはかすかに目を瞠った。
見目麗しい女性が岩礁の上で歌っている――と、思いきや、よく見れば彼女の下半身は緑色の鱗で覆われ、尾びれがついていた。
「―――――――♪」
聞いたことのない言葉だった。けれど、どこか切なさを感じさせる美しい歌声だった。
ああ、ずっと聞いていたい。願わくば、この歌声を聞きながら永き眠りにつきたい。
そう思えるほど、その歌声にディナトの心は奪われてしまった。
心地よい歌声のせいもあってか、睡魔が襲い始めた。
もともと海賊との戦いで満身創痍になっていたこともあり、ディナトは瞬く間に闇に落ちていった。
*****
ひんやりとした冷たい感触がした。
体がそれに反応してディナトを目覚めさせる。
ぼんやりと映る薄水色の天井。貝殻や珊瑚が付けられた可愛らしい室内灯。そして――
「気がついた?」
黄金の長い髪を緩く結わえた美しい女性が、こちらを見下ろしていた。どうやら冷たい感触の正体は彼女の手だったらしい。
「っ⁉」
ディナトは愕然として跳ね起きた。だが、体のあちこちが痛むうえに眩暈がする。
「だめよ。熱も少しあるからまだ寝てないと」
女性がディナトの体を支えながら言う。
眩暈も収まったところで、ディナトは改めて自身の体を見つめた。
ぼろぼろになっていた海軍の制服は脱がされており、上半身は包帯に覆われていた。ズボンはそのままだが、靴や靴下も横たわっていたベッドの近くに置かれていた。
「君が、手当てを……?」
「ええ」
微笑んで頷く女性は青いワンピースを身にまとったごく普通の人間だった。
――あれは、夢だったのか?
確かに自分は人魚――セイレーンを見た。
古くからここオケアノスに伝わる、おぞましい魔物を。
「冷たいお水を持ってくるわ」
混乱するディナトに言って、女性は部屋の奥にあるキッチンへと向かった。
改めて室内を見回すと、そこかしこに海を思わせる青系統の家具や装飾品、それから海洋生物を模した置物などがあった。それこそ海の中にいるような錯覚すら覚えそうだ。
「はい。どうぞ」
「あ、ありがとう」
戻ってきた女性からコップを受け取り、ディナトは一気に水を飲み干す。
冷たい心地よさが喉を通じて全身に広がり、大きな一息をついた。
「まだ体が辛いでしょう。ゆっくり休んで」
「君は……?」
「私はタラサ。あなたは?」
「ディナト」
「ディナト。良い名前ね」
タラサは柔和に目元を細め、彼を横たわらせた。
「大丈夫。ここは安全だから」
あなたを傷つけるものは何もない。
自身にかけてくれる言葉、その音ひとつひとつに心が浮き立つ。サファイアの如き碧い瞳に魅了される。
本来なら警戒心を抱くはずなのに、疲労と快感のせいか、ディナトは彼女の囁きのままに夢へと誘われていった。
*****
「サマラス大佐! 前方に数隻の海賊船を捕捉しました」
潮風に当たっていた時、部下からの報告にディナトは厳かな目つきに変える。
「おそらく、目標としている海賊船かと」
「わかった。すぐに迎撃体勢を敷け。奴らを一人も逃すな」
「はっ!」
哨戒船の長として、ディナトは部下たちに指示を下した。
黒髪にルビーの如き赤い瞳。日に焼けた肌。肩章や飾紐がついた凛々しい海軍服を着こなす佇まいは洗練されており、部下たちの羨望の的だった。
ディナトは腰に下げている剣の柄に手を添え、宿敵に目を向けた。
「この美しい海を穢すことは許さない」
柄を掴む手に力が籠る。
「刺し違えてでも、奴らは一人残らず殺す」
焼けつくような怒りと憎悪が発露し、彼の隣を通り過ぎていく海軍兵たちは畏怖した。
揚々と掲げられた海賊旗を見るたびに、脳裏にあの日の惨状が鮮明に思い浮かぶ。
十五年前、突として街に現れた海賊たち。
まだ十歳だったディナトに悪逆な彼らに抗う力はなかった。金品を奪うために親や友達を無遠慮に殺した彼らに、無謀に掴みかかるのが関の山。自分も殺されそうになったところで、海軍兵たちに助けられた。
以来、平穏な生活と大切な者たちを奪っていった奴らへの復讐を糧に生きてきた。
だが――
「大佐っ!」
標的としていた海賊たちに次いで、意図してか否か、他の海賊船も押し寄せてきた。
多勢に無勢の戦況下、殺されそうになった部下を庇ったことで腹部に裂傷を負った。それから腕や頬も奴らの剣の餌食となってしまった。
終いには砲弾の雨が降り、哨戒船は沈没した。みな海に放り投げられ、荒波に呑まれていった。
ディナトは辛うじて大破した船の一部にしがみつき、しばらくの間、海を漂流していた。そこであの不思議な歌声を聞き、伝説の魔物の影を垣間見た。
「―――――――――♪」
ふと、またあの歌声が耳朶に響いた。
ゆっくりと双眸を開くと、ベッドの傍でタラサが椅子に腰かけて歌っていた。
神秘的な声色。未知なる言語が紡ぐ優艶な旋律。
魔性とも言えるその歌声はやはり、己の心を惹きつけて離さない。
「あ、起こしちゃったかしら」
タラサが気づき、歌うのをやめた。
ディナトはゆっくりと上体を起こす。
「体の調子はどう?」
「まだ鉛のように重いが、さっきよりは幾分かマシになった」
「そう。なら良かった」
慈愛に満ちた微笑。ディナトはこれ以上、心を惹きつけられては危険だと、彼女から視線を逸らす。
「タラサは……セイレーンなのか?」
核心を突く問いかけに、タラサは目を瞬いた後、微苦笑を浮かべながら答えた。
「ええ。そうよ」
返ってきた肯定に、ディナトはわかっていながらもかすかに息を呑んだ。
セイレーン。美しい歌声で人を魅了し、海のなかに連れ去っては捕食すると言われている魔物。昔の人々がその危険性からセイレーンを討伐したことにより数が激減、果ては絶滅したとさえ言われていた。
「まさか、今の時代にセイレーンがいたとは……」
「おそらく、もう私一人だけだと思うわ。母も子どもの頃に人間に捕まってしまって、それ以来、帰ってきていないから」
「……そうか」
重い空気が青い空間のなかに垂れ込む。
「だが、今の君は人間と変わらない姿をしている」
「私はセイレーンと人間の混血だから、どちらの姿をとることもできるの」
「混血?」
「母がセイレーンで、父が人間。昔、母が船乗りだった父と出会って好きになって、満月の夜に陸に上がって父に会いに行ったそうなの。それで私を身ごもった」
セイレーンは普段、海のなかで暮らしているが、満月の夜だけ陸に上がることができる。そこで人間の男性と逢瀬を交わすという伝承も残っていた。
タラサは室内を見回しながら続ける。
「この家はもともと父が孤島で暮らしていた時に使っていたもので、私が生まれてからもずっとここに住んでいるの」
「そうだったのか。それで、君の父上は……」
「病で亡くなったわ。母が海軍に捕まって連れ去られて以来、心を塞いでしまってそのまま……」
「海軍に……」
海賊だけでなく、海に棲む魔物の討伐も海軍の仕事だ。ディナトがセイレーンに関する知識を有していたのも、海軍兵学校の講義で聞いたことがあったからだった。
ディナトは顔を伏せながら重々しく問う。
「……俺は海軍の人間だ」
「ええ。知っているわ。あなたを見つけた時、海軍の制服を着ていたから」
「なら、なぜ俺を助けた? 君にとって俺は両親の仇のはずだ。それこそ、俺を殺したいと思うほどに憎んでいてもおかしくはない」
「確かに、母を連れ去って父を悲しませたのは海軍。でも、同じ組織とはいえ、ディナトが母を手にかけたわけではないでしょう」
ディナトははっとして、タラサを見据えた。
純粋な輝きを放つ碧瞳が、こちらを真っ直ぐにとらえていた。
「それに、あなたはひどく傷ついていた。私が助けなければ、あなたは力尽きて死んでいた。助けられる命を見殺しにするような冷たい魔物にはなりたくない」
「タラサ……」
「だから、そんなに重くとらえなくていいの。私に遠慮することもないわ」
タラサの冷たい手が、己のそれを優しく包み込む。
「あなたが無事でよかった」
「っ……!」
目頭が熱くなり、ディナトは必死に溢れそうになったものを堪えた。
――心を、許し過ぎてはいけない。
人間離れした美麗な容姿。虜にする声音。縋りたくなるような優しさと笑み。
――俺を誘う罠だ。
これ以上、彼女と同じ空間にいるのは危険だ。
理性が警鐘を鳴らし、ディナトはベッドから立ち上がる。
「まだ寝てないと……」
「助けてくれて感謝する。だが、俺はもう行かなければ」
「その体じゃまだ無理よ。それに、ここは本土から遠く離れているわ。自力で戻ることなんてできない」
「ならば、ひとまず君の家から失礼させてもらう」




