最終話 セイレーンの愛歌
一か月が経ち、ディナトの傷はすべて完治した。
包帯もとれ、剣も以前と同じくらい力強く振るえるようになっていた。
「良かった。傷も綺麗に消えているわ」
「タラサのおかげだ。ありがとう」
「私は何もしていないわ」
「そんなことはない。本当に世話になった」
これで、ディナトはここにいる理由はもうなくなった。
今日がその時だと、ディナトが別れを告げようとしたその時――
「ねえ、ディナト」
タラサが口火を切った。
「良ければ、一緒に泳がない?」
「え?」
「ディナトに海のなかを見せてあげたの。もしかして、泳ぐの苦手?」
「いや、そんなことはないが……」
「なら、一緒に海へ入りましょう。ちょっと待ってね」
そう言って、タラサはタンスから男用の水着を取り出してディナトに渡した。
「父が使っていた水着。サイズが合うかどうかわからないけれど、着てみて」
タラサはすぐにその場を離れていったので、ディナトは言われた通り、水着に着替えた。タラサが移動した別室まで行き、彼女を呼ぶ。タラサは振り返るなり、「サイズぴったり!」と破顔した。
「すごく似合っているわ」
「そうか……?」
「ええ。でも、やっぱりディナトは海軍兵だけあってたくましい体つきね」
日焼けした体躯は鍛えられ、露わになった腹部は八つに割れている。他の女性が見ればうっとりすること間違いなしの色男だ。
「丈夫な体つきでなければ海軍兵は務まらないからな」
「それもそうね。じゃあ、行きましょうか」
両者は家を出て、海に入る。すると、タラサの下半身が瞬く間に緑色の鱗に覆われていき、立派な尾びれが出来上がった。上半身も白皙の肌のみとなり、ディナトは思わず赤面して視線を逸らす。
『大丈夫よ』
すると、タラサの声が頭に響くようにして聞こえた。
『人間は海のなかでは喋れないけれど、セイレーンは普通に会話ができるから。私の声、聞こえている?』
ディナトが首を縦に振ると、タラサはにこやかに笑んで北の方角を指さした。
『あっちに綺麗な珊瑚礁があるの。行きましょう』
ディナトの手を取り、タラサは優雅に遊泳した。
その姿にディナトが見惚れる一方で、タラサもまた夢見心地な気分を噛み締めていた。
――本当、夢みたい。
この一か月、ディナトと過ごしていて、タラサにも少なからず心境の変化が起きていた。
彼がよく見せるようになった優しい笑顔。低くて穏やかな声。
汗を流しながら外で剣を振る勇ましい姿。タラサに見せてくれるすべてが己の心を高鳴らせるもので、タラサは秘かに頬を紅潮させていた。
――こんな気持ち、初めて……。
この感情は、どう言い表せればいいのだろう。
最初は自身の感情に戸惑った。けれど、子どもの頃に母が教えてくれた言葉を思い出して、すぐにその感情の正体を突き止めた。
『お父さんと出会って、たくさんお話していたら、いつの間にか心臓がどきどきするようになっていたの。そして、ああもっとこの人のことを知りたい。ずっと一緒にいたいって思うようになっていたのよ』
それが誰かを想う心――恋というものなのよ。
遊泳する海の生き物たちに瞳を輝かせているディナトを垣間見て、タラサは亡き母に思いを馳せた。
――お母さん、私この人に恋しているんだわ。
今日が別れの時であることは重々わかっていた。けれど、どうしても眼前の男性を引き留めておきたくて、一緒に泳ごうと提案したのだ。
好きな人と一緒に海を楽しむ。それが、母から恋を教えてもらった時から抱いていた夢だった。
――どうか、もう少しだけ。
もう少しだけ、この人といさせて。
*****
太陽が地平線に沈み、空が茜色に染まっていた。
「はあ、楽しかった!」
「そうだな」
両者は浜辺に腰を下ろし、夕景を見つめる。
「ありがとう。私のわがままに付き合ってくれて」
「わがままじゃない。俺も泳ぎたいって思っていたから」
「本当に?」
「ああ」
互いに笑い合ったところで、タラサは大きく息を吸って自慢の歌声を響かせた。
「―――――――――♪」
緩やかな波音と合わさって、魅惑の旋律が黄昏の空と海に溶け込んでいく。
ディナトは目を閉ざし、タラサの歌に聞き入った。
何度聞いても飽きることがない。すっかりセイレーンの歌唱に陶酔し、いつの間にか隣にいる美しい女性に首っ丈になっていた。
タラサが口を閉ざしたところで、ディナトは尋ねる。
「いつも歌っているその歌、聞いたことのない言語の歌詞だな」
「セイレーン独自の言語があってね。この歌もお母さんから教わったの。歌の名前は美しき我が世界」
「美しき我が世界……」
「この海の美しさを讃える歌なんだそうよ」
「そうか。とても綺麗な歌だ」
「私もこの歌が一番好きなの」
両者は再び夕焼けに染まった美しい世界に目を向ける。
しばしの沈黙の後、ディナトは口を開いた。
「俺は明日、ここを発つ」
タラサははっとして、ディナトのほうを振り向いた。
「ここを発って、海軍本部に戻る。海賊たちを追わなければ。そう思っていた」
夕陽の光を受けて輝く青年の、赤く燃える双眸がタラサをとらえて離さない。
「でも、俺の心はいつも君のことでいっぱいだった」
「ディナト……」
「タラサ、君を困らせてしまうかもしれない。でも、どうか言わせてほしい」
俺は君のことが好きだ。
ディナトの想いに、タラサは大きく目を見開いた。そして、大粒の涙が零れ落ちる。
「君の歌声を――君自身を、愛してしまった。だから、どうかそばにいさせてほしい」
ディナトの願いを拒む理由などなかった。
タラサも同じ想いだったから。
「……ええ。私もディナトを愛しているわ」
一緒にいさせて。
通じ合った想いに、両者は歓喜する。
ディナトはそっとタラサを抱擁した。タラサもまたディナトを抱き返す。
二つの影が一つになる。
煌々と燃え輝く太陽を前に、二人は唇を重ねた。
太陽が沈むと同時に、二人もまた浜辺に倒れ込んで互いの愛を確かめ合うように深く口づけた。
その夜は満月だった。
星々が煌めくなか、セイレーンの最も美しい歌声が静まった海を包みこんでいた。
「~~~~~~~~~♪」
岩礁のうえで朗々と歌う恋人を、ディナトはそばで見守っていた。
歌う前、タラサが言っていた。この歌は、セイレーンが愛する人だけに贈る愛歌なのだと。生涯の伴侶となり得る人物だけが聞くことを許された、至高の歌声だと教えてくれた。
「~~~~~~~~~~♪」
現に、彼女の歌声はいつもより伸びやかで艶めいていた。
言葉はわからずとも、自身に向けられた愛がひしひしと伝わってくる。そんな愛歌だった。
歌い終え、家のなかに戻っても恋人たちの触れ合いは絶えることなく。静謐な月光が差し込む海の部屋のなかで愛を囁き合っては、熱を帯びた声が響いていた。
*****
その後、ディナトはタラサと話し合って、一度海軍に戻ることにした。
このまま島でタラサと蜜月を過ごすことも考えたが、やはり自身の為さねばならないことがしこりとなって残り続ける。そう思い、すべてが終わったら二人で孤島に住むと決めた。
タラサが一緒に本土へ来ることも提案したが、彼女はかぶりを振った。
「お父さんが遺してくれたこの家を守らないと」
タラサの意志を尊重し、ディナトは彼女の手を借りて本土に帰還した。
それから因縁の戦いに身を投じ続け。
宿敵をこの手で制裁した後、海軍を辞職した。
ディナトがタラサのもとに帰った頃には、彼女と初めて会った時から三年の月日が流れていた。
懐かしくも見慣れたドアをノックする。
すぐに愛おしい女性が出迎えてくれて、彼女は涙ながらにディナトを抱擁した。
「おかえりなさい。ディナト」
「ただいま。タラサ」
そして、彼らは募っていた恋情のままに身を寄せ合い、唇を重ね続けた。
絶海にぽつりと浮かんでいる名もなき孤島。
そこでは毎夜、人知れずセイレーンの愛歌が響き渡っている。




