キンクス侯爵令息 バールの事情
見ているだけでいいと思っていた。
声も知らず
遠くからそっと
なのにいつの間にそんな気持ちになったんだろう。
欲しくなっていた。
でも今はもう彼女はこの国にはいない。
僕の初恋は少しの風も吹かずに終わった。
カザン準男爵令嬢のジャクリーン嬢は我がリラ国の平民の父親、北の閉ざされた国パタヂャカ出身の母親の間に生まれた、パタヂャカの特徴を強く受け継ぐ令嬢。
思わず惹きつけられる漆黒の髪、強く射抜かれそうな黒い瞳、白磁気のような白い肌、艶やかな赤い唇。
清らかな雰囲気を纏った美しい令嬢だった。
物静かな佇まいは潔癖にもうつる。
下位貴族でありながら気高い彼女に誰も気楽に声などかけられなかった。
彼女が入学して来て何人もの令息が彼女が何者か調べたことだろう。
もちろん僕もその中の1人。
だがいくら彼女を調べようともパタヂャカのことになると一切の情報が入らなくなり、結局はこの間まで平民だった準男爵令嬢だという以外何もわからなくなる。
僕は侯爵家の嫡男だ。
その僕がこの間準男爵になったばかりの令嬢と婚約などできるはずがない。
いや…………
本当にできる筈がないか?
必死で頭を巡らせた。
現状わかることはと言えば
カザン準男爵の商会は右肩上がりで、あの閉鎖的なパタヂャカとの取引をしていること。
カザン商会は平民の富裕層向けの木のおもちゃを売ることにはじまった。
パタヂャカでは珍しくないらしい、若い職人達の習作の積み木。
息を呑むほどの技術が詰まっていた。
ピッタリと吸い付くようにどこまでも積み上がっていく積み木は、面が真っ平らなことを示している。
我が国の積み木とは比べものにならないほどの出来ばえで、いまや貴族も欲しがる良品。
これが若い職人の習作?
それだけでパタヂャカの職人の技術の水準が恐ろしく高いことが窺える。
おそらくは建築の技術も素晴らしいものだとまで推察できる。
噂では夫人がパーティーで着ていたレースの手袋は見事で、どこの店のものかと聞いたところ、国を出る時に持ってきたものだと言ったそうだ。
気付く者はもう気付き始めている。
パタヂャカ国はこれから伸びていく、価値がある国だ。
ただ一筋縄でかないのも有名な話。
閉鎖的なあの国は言葉も文化も何もかも周りの国とは違う。
そして礼儀正しい国民性は、他所者を嫌う。
だから誰もあの国に手を出さなかった。
いや、出せなかった。
問題はとにかく言葉。
だけどジャクリーン嬢は幼少期はパタジャカで過ごしておりパタジャカ語が堪能だ。
彼女がいるだけでまだ手付かずの国パタヂャカと話ができる。
それだけでジャクリーン嬢には価値がある。
高位貴族の婚約者としてたっていても問題がないほどに。
いいや、問題はある。
それは現状貴族じゃないってこと。
貴族じゃない令嬢に侯爵家から婚約の打診はあり得ない。
前例もない。
だからまずは親しくならなければならない。
高位貴族のクラスに彼女がやってきた時は、皆色めきだった。
どこかに仲良くなる隙はないかと。
でも悲しいかな彼女に隙などなかった。
話しかけて適当にあしらわれたら、この僕の面目丸潰れ。
僕の評価はそのまま家の評価にもなる。
大博打を打つわけにはいかず、どういう令嬢なのかもわからず、だれかが最初の一歩を打破するのを待つしかなかった。
そこにキャルが告白ごっこの話を持ってきた。
そしてそのあとは知っての通り。
まんまと美味しいところを持って行ったのはキャルだった。
……それでもジャクリーン嬢は国から出て行ったのだから勝者はいないというべきなのかな。
僕だってこれだけ必死に策略を練ったけれども無風で終わった。
でも。
そこまでして彼女を求めて策略を練ったあの時間は、今振り返っても輝いて見える。
あのように沸き立つような衝動は体の底から力がみなぎるような。
甘く痺れるような初恋の胸の痛みも。
この僕が心のままに、欲しいものを手に入れるために、必死になって動いたのはあれが初めてだった。
侯爵家嫡男として矜持を持って義務を果たす。
当たり前を当たり前と思っていた僕の、ひとときの夢。
何も言えずに終わった。
声も知らずに終わった。
僕の初恋はこれで終わり。
なんとも僕らしい。
だからもう満足だ……
しんみり感傷に浸りながら学園の図書館に続く道を歩いていた。
その時だった。
ザッといきなり前を誰かが立ちふさがった。
僕は痙攣するように肩を震わせて文字通り飛び上がり、その勢いのまま側に立っている木に体をぶつけ、反動で地面に突っ伏しそうになったが、かろうじて踏ん張った。
余韻のように葉っぱがハラハラと落ちてくる。
「…………驚かさないでくれよ……」
目の前に現れたのはニックとの喧嘩以来あまり話さなくなったキャル。
「ニック。ひとつ頼まれてくれないか?」
僕の抗議なんてなかったように話し出す。
キャルが僕に頼み事?
珍しい……
そうだね、とりあえず……
僕は頷いてにっこりと笑った。
「驚かせたことを謝罪してくれないか。」
話はそれからだよ。




