第52話 「ぶどうジュース」
俺がだらんと家で過ごしていると、
先輩から電話がかかってきた。
「やあ、枕木君」
「どうしましたか先輩」
「良いぶどうジュースを貰ったから、僕の家で一緒に飲まないかな?」
「はあ」
その言葉を聞いた時、
俺は先輩の家に行けるのは嬉しいという気持ちと、
なんでわざわざ、ぶどうジュースのために……という気持ちが生まれた。
そして、俺が行くか行かないか悩んでいると、
先輩がこう言ってきた。
「枕木君、このぶどうジュースはとても高くていいものだよ」
とても高くていいもの……?
先輩の家はお金持ちだ。
その先輩が「高くていいもの」と言うなんて、
これはもう飲みに行くしかない。
「行きますっ」
「ふふ、枕木君は高いものが好きだね。それじゃあ、待っているよ」
そして、電話を終えたあと、
俺は急いで身だしなみを整えて、
スキップしながら先輩の家へ向かった。
しかし、高級なぶどうジュースなんて、
俺は飲んだことはない。
せいぜい、スーパーで売っている果汁100%の500円ほどのものをたまに飲むくらいで、
それも俺からしたら結構高級品だが、先輩のは一体いくらなのだろうか。
(1000円……? いや、5000。いやっ1万円は超えてるだろうな〜)
そんな風に値段を想像しながら歩いていると、
ついに先輩の住んでいるマンションに着くことができた。
そして、先輩がエントランスで待ってくれている。
「やあ、枕木君。悪いね、急に呼んでしまって」
「いいんですよ〜さっ、早く行きましょう」
「ふふ、そうだね」
そして、俺たちはエレベーターへ乗って、先輩の家へ向かった。
……しかし、なんて心が躍るんだろう。
ぶどうジュースでこんなにワクワクするのは、
俺の人生で初めてだ。
俺はエレベーターの中でも、ぶどうジュースのことで頭がいっぱいで、
思わず踊ってしまった。
そして先輩に「落ち着いてね」と言われてしまった。
「す、すいません」
「ふふ、いいよ。枕木君が高いものに目がないのは知っているからね」
「なっ、そ、そんなことは……」
言い返そうとすると、ちょうど先輩の住んでいる階層に、
エレベーターが止まってしまった。
「ほら、行こうか」
もう言い返す気もなくなってしまった。
まあ、そんなことよりぶどうジュースだ。
俺は言葉を飲み込み、先輩についていって、
家の中へ入った。
「それじゃあ、手洗いしてからリビングへ行こう」
「はいッ」
思わず大きな声が出てしまった。
そして、先輩に少し笑われたあと、
俺たちは手洗いうがいをして、リビングへ向かった。
「じゃあ、持ってくるから、ここで座って待っていてね」
「はーい」
そのあと、先輩がどこかへ行ったあと、
なにやらワインボトルのようなものを持ってきた。
「せ、先輩……これが」
「そう、ぶどうジュースさ」
そのぶどうジュースのボトルは、
よく見るいかり形だというのに、
重厚で、気品を感じさせてくる。
高級なものは味だけではなく雰囲気も違うということだろうか。
「お、おお……」
俺は思わず、声が漏れてしまった。
「感動しているみたいだね。それじゃあ、これで飲もうか」
そう言うと、先輩はテーブルにワイングラスを置いた。
「これは……」
「ふふ、せっかくならグラスにもこだわりたいと思ってね」
「せ、先輩、本当はワインとかじゃないですよね……」
「未成年同士でお酒を飲むなんてこと、僕がするわけないじゃないか。ほら、注ぐよ」
そして、先輩は俺と自分のグラスにぶどうジュースを注いだ。
その姿は、まるでソムリエのようだった。
「先輩。俺は注ぎ方よく分かんないですけど、なんか上手いですね」
「ふふ、そうかな。さて、飲もうか」
「は、はい」
ついに飲めると思うと、
緊張で思わず手が震えてしまう。
そんなことをしていると、先輩が俺の、
グラスを持っているのと反対の腕を優しく握ってくれた。
「緊張しないで、大丈夫だよ。落ち着いてゆっくりと飲むんだ。きっと、そっちの方が美味しいよ」
俺は先輩の言葉で、手の震えが止まった。
「あ、ありがとうございます先輩」
「ふふ、大丈夫さ。では乾杯だね。あっ、グラス同士が触れないようにね」
そして、俺たちはグラスが触れ合わないように乾杯し、
香りを楽しんでから、ゆっくりと口へ含んだ。
(こっ、こここ、これはっ……)
美味しい。
今まで飲んできたぶどうジュース……いや、
今まで飲んできた飲み物で1番美味しい。
俺はあまり舌に自信はないが、
そんな俺にでも違いを感じさせるような、そんな味だった。
美味しい、とにかく美味しい。
俺の語彙ではこれ以上表すことができないが、
とにかく美味しい。
「どうかな? 枕木君」
「おっ、美味しいです。すっごく、すっごく美味しいです。先輩もどうでしたか?」
「うん、とっても美味しいよ」
そのあと、俺はあっという間に注がれた分を飲んでしまった。
「ふふ、よほど美味しかったみたいだね」
「だ、だって本当に美味しかったんですもん。なんというか、頭がぶわーってするっていうか……」
「君の食レポは面白いね」
「じゃ、じゃあ先輩も食レポしてくださいよ」
俺がそう言うと、先輩は少し悩んだ様子を見せたあと、
真面目な顔で「美味しい」と言ってきた。
「あの、それ食レポじゃないですよね。なんかもっと『口に含んだ瞬間、ぶどう畑が脳裏に浮かんでくるような〜』みたいなのじゃないんですかっ」
「あっ、それいいね。口に含んだ瞬間……」
「俺のをパクんないでくださいっ」
先輩は食レポができないのだろうか、それともしないだけなのだろうか。
先輩は俺より語彙が豊富そうだし、
やろうと思えばできそうだが……。
そんなことを思いながら先輩を見ていると
「まあまあ」と言いながら先輩はぶどうジュースを注いでくれた。
「ほら、飲んで落ち着こうよ」
「まあ、さらに飲めるなら……」
そのあと、俺たちはたくさん飲み、
ボトルが空になってしまった。
「あっ、なくなっちゃいました……こ、これ全部飲んじゃって大丈夫ですか」
「大丈夫だよ〜だからこそ君を呼んで一緒に飲んだわけだしね。それより……」
「それより?」
「僕、酔ってきてしまったな〜」
先輩の顔が、少し赤みを帯びている。
俺は先輩の一言に「実はワインだったのか!?」と思い、
ラベルを見たが、アルコールは入っていなかった。
「……酔ってないですよね先輩。これ、ワインじゃないし、アルコール入ってないですし」
「……もう少し乗ってくれてもいいじゃないか」
そう言うと、先輩の顔から赤みが消えた。
「酔ったふりをしたら、君がどんなふうになるのか気になってね」
「もしかして、そのために俺を呼んだんですか?」
「うん」
先輩の考えていることは、よく分からない。
まさかそんなことのためだけに俺を呼ぶなんて。
まあ、先輩の家で先輩と高級なものを飲めたのだから、俺に不満はないが……。
「でも、先輩が本当に酔ったらどうなるんですかね。ほら、泣き上戸とかいろいろあるじゃないですか」
「確かに、僕も僕が酔ったらどうなるか気になるよ」
「ですね。俺も自分がどうなるか気になります。20歳になったら一緒に酔いましょうね」
「ふふ、りゅりゅも一緒にね」
そのあと、二人で楽しく話していると、
奥の部屋からうめき声のようなものが聞こえてきた。
気になって、二人で音の出どころの部屋を見ていると、
ドアが開き、先輩のお母さんが出てきた。
「あ〜あ〜、明日、久しぶりにあの人と会えると思ったのにさあ〜、急に忙しくなって会えないとか意味わかんないーっ。あー遊星君じゃーん来てたの〜? ねえ〜聞いてよ遊星君〜っ。久しぶりに夫と会えると思ったらさあ〜、急に会えなくなったんだよお……意味わかんないいっ」
どうやら、お母さんはだいぶ酔っているようだ。
普段より感情的だし、お酒の匂いがしてくる。
「あ〜もうこうなったらやけ酒してやるもんね〜。マオ、ワイン三本持ってきて、あと水ーっ」
それを聞いた俺と先輩は、思わず顔を見合わせてこう思った。
こんなふうになるなら酔いたくない……と──。




