50.その夜、二人の距離はとても近くて
第五十話「その夜、二人の距離はとても近くて」
澪のトリミングサロン候補物件から、眠る仔羊亭までは澪の体感で徒歩十五分くらいだった。通勤にはすごく恵まれた距離だと、澪は大喜びしていた。そんなに喜ぶほどか? とガルドは不思議に思っていた。
というのも、澪が働いていたブラックトリミングサロンは、通勤に一時間から一時間半かかっていた、片道で、だ。バスや電車の乗り換えがあり、接続次第で一時間半以上かかる時もある。良い働き先に勤めたいと思うなら、通勤時間二時間でも通うような人々がいる世界だ。
逆にこのイングロン王国では、住居兼職場、が殆どである。城下町のオシャレな店舗では、従業員用の住み込みの寮がお店の建物内に備わっていたり、お店の近くにある場合が多い。通勤時間を短くして長く働く、というのが常識なのと、自分の店のものは寝泊りして守る、それが当たり前だそうだ。
眠る仔羊亭で女将の心のこもった美味しい晩御飯を共にしながら、澪とガルドはお互いの世界の違いについて話して大いに盛り上がった。勿論、お酒も飲みながら。
「女将さんの料理がすごく美味しくて、こんな美味しい物が食べられるなら、ずっとここに住みたいです」
澪が苦いお酒を流し込み、口直しの野菜のソテーを食べていると、ガルドは少し酔いながら、澪の肩に手を置いた。
「澪、残念だが、お前も店を出したらそこに住むんだぞ?」
「ええ!?」
いつも落ち着いている澪が、意外なほどに動揺している。ガルドは怪訝に思い、「どうした?」と訳を聞いた。
「一人暮らしには良い思い出がなくて……」
ブラックトリミングサロンで働いていた頃、一人暮らしもしていたのだが、過労もあって家の事がろくにできていなかった。家事全般、きちんと時間をかけてこまやかに整えることができなかったのだ。それが澪には苦い思い出であり、自分はダメな人間なのではないかと心の奥底でその気持ちがしこりのように残っている。
二人の様子が気になったのか、女将がアンジュと一緒にテーブルに来てくれた。
「こら、ガルドさん。まぁた未婚の女性の体に触れて!」
澪の肩に置かれたガルドの手をササッと払いのけ、澪にウインクする女将。
「澪ちゃん、ガルドさんがたくさん触れてくるのなら、責任を取ってもらわなくちゃいけないわよ」
「えっ? 責任って何ですか?」
澪はきょとんとして聞き返した。もうハグした仲ではあるのだが。女将は澪の頭をよしよしと撫でて、ギロリとガルドを睨んだ。
「そりゃあ、お嫁さんにもらうって事よ! 未婚の女性と親しくするっていうのはねえ、そういう事なの。そうでなくてもガルドさん目立つんだから、澪ちゃん連れて歩いてる事も噂になってるのよ」
ひええぇーーーーー!!!
澪は心の中で声を上げた。嫁ですって! ガルドさんと結婚。
とんでもない事だ。ガルドさんに多大なる迷惑がかかってしまう。それに澪自身、結婚願望を持った事が無いので、ピンとこない。
ガルドは酔いが回って来た顔で、テーブルに頬杖をつき、半開きの目で澪を見つめている。
「そんなもん、好きに言わせときゃいいだろ。それに、本当に困った事があれば、その時は結婚すればいい……それで守ってやれるならな」
(えええぇえぇーーーーー!!!!)
澪は心の中で叫び声を上げた。半分くらい酔っ払いになっているガルドは、本気なのかそれとも適当に言ったのか、判断がつかない。
女将がそんなガルドの背中をバシン! と叩いたので、その豪快な音に澪はびっくりして椅子の上で飛び上がった。
「もう、ガルドさん! あなたじゃなくて、澪ちゃんの気持ちを考えたあげて下さいよ。まだこんな若いんだから、歳の差結婚するには勿体無いでしょう」
「勿体無いなんて! とんでもないです。私の方が、ガルドさんに不釣り合いですよ。常識も無いし、見た目は幼くても若くないし、綺麗でもないですし」
澪が声を上げると、女将は笑いながら澪の頭を撫でた。
「なーに言ってるの澪ちゃん。あなた、従魔と触れ合ってる時、すごく輝いていて綺麗よ。オシャレしてないから分からないだけで、すごく美人さんなんだと思うわ。ガルドさんみたいな歳の行った偏屈な人には勿体無い……」
と、言葉を続けようとした女将の視線が、ガルドを見て止まる。ガルドは頬杖からずり落ちて机に突っ伏したまま、眠っていたのだ。そんなガルドを見る女将の眼差しは優しく、アンジュが主の意思を汲み取ってカウンターの向こうから膝掛けを咥えてやって来る。女将はその膝掛けをガルドにかけてやり、小声で澪に話しかけた。
「……この人ね、本当に女っ気が無くて。仕事一筋で生きてきて、下町をこんなに豊かにしてくれたのもガルドさんなのよ。こうやって夜になっても明るく過ごせるのも、ガルドさんが格安で灯りの魔道具を作ってくれたお陰。こんな良い人、なかなか居ないわ。そんなガルドさんが、澪ちゃんに首っ丈でしょ? だから、澪ちゃんがいつかガルドさんを受け入れる気持ちになったら、二人とってもお似合いだと思うわ」
それは澪にとっては衝撃の言葉だった。
女将はおせっかいのつもりであれこれと脚色して言ったのかもしれない。客商売をする中年女性にはあるあるだ。
だが、澪はそれを真に受けてしまった。
「あ、あの、今日は、今日のところは、私、先に寝ますね、ガルドさんのこと、お願いします」
慌てるようにして、二階の自室に向かう。ルーチェの足跡が後ろからついて来る。澪はチラリと寝ているガルドを振り返りつつ、急ぐように自室に飛び込んだ。
(ルーチェ! どうしようガルドさんって私のこと……)
ルーチェは後ろ足で耳をカキカキ、顔をそっぽを向いていたが、返事はくれた。
(みおってば、いまさらなーに言ってるのよ。おっさんはみおのこと好き好きなのよ、バカでも分かるのよ)
澪は心臓がドキドキ早く脈打つのを感じ、そこを抑えながら、ベッドに座り込んだ。
「ルーチェ、好き好きとか言うのはやめてぇ……明日からどんな顔して会えば良いのか分かんなくなっちゃうから」
(みお、恋とか愛とかニガテそうなのよ。分かったのよ。るーちぇが力になるのよ)
本当にこの小さなミックスちゃんが力になってくれるのだろうか、と澪は頭を抱えつつ、本人は酔って寝てしまったところに突然聞かされた、予期せぬ告白に悶えながら眠れぬ一夜を過ごしたのだった。




