37.漆黒石の髪が額の汗で濡れた姿
第三十七話「漆黒石の髪が額の汗で濡れた姿」
時はしばし戻り――――――。
レオンハルトはその日の朝、洗顔のため白い琺瑯の洗面器に張られた液体が水であることに気付いて、びっくりした。
「誰だ! 私の洗顔に水を入れたのは。処罰の対象になると分かっての事か?」
彼はレオンハルト・ベルディス侯爵という、れっきとした高位貴族なのだ。その洗顔には、毎朝適温の湯を張るよう、細かく指示が出されている。なのに、それをせず冷水を入れたというのは、立派な貴族冒とく罪に当たる。
レオンハルトの怒りに縮こまる使用人の中、小柄な高齢女性がスッと歩み出た。メイドの服ではなく、濃紺に白いレースが付いた、上品なドレスを着ている。
「お坊ちゃま。昨日のお客様への対応を、このマリザも耳に致しました。ベルディス侯爵ともあろう者が、お客様に対して完璧な対応が出来ずして、どうするのです。この冷水は、目を覚ましなさい、という意味で用意いたしました」
「マリザ……だが、相手はあのガルドとその連れの……」
レオンハルトは自分の言おうとしている事に気付いて、ハッとして口を閉じた。無意識にガルドとその連れの澪の事を、自分より格下に見ていた。ガルドは名誉男爵ではあるので、貴族同士のマナーは最低限守らねばならない。
それに、連れの花守澪についても同様だ。男爵がエスコートしてきた女性なのだ、しかもエレクトラに誠心誠意、心を込めて〈とりみんぐ〉をしてくれた。
なのに、彼女とのやり取りの最中、笑を忘れてその場に放り出してしまった。見送りすらしていない。
「ハァ……言いたい事は分かった、マリザ。それでは、昨日失った名誉を取り戻しに、行ってくるとしよう」
そばにいたエレクトラが、自ずと歩み出てレオンハルトの手のひらに頭を擦り寄せた。以前のエレクトラなら殆どしなかった仕草だ。レオンハルトはそのサラサラな彼女の髪の感触に触れて、昨日の澪を思い出していた。
澪はワンピースが汚れるのも気にせず、一心にエレクトラの〈とりみんぐ〉をしてくれた。レオンハルトが彼女に働いた数々の無礼に対して、そこに一才の妥協やわだかまり無しに。あの、額の汗に黒髪が張り付いた姿が忘れられない。
使用人達がレオンハルトに騎士団長の制服を纏わせ、彼の身支度を美しく整える。
今、イングロン王国でもっとも人気がある花婿候補のうちの一人、それがレオンハルト・ベルディス侯爵だ。使用人達にとっても自慢の雇い主である。この美しく強い男性を、より美しく飾り立て、一糸の乱れも無い姿にする、それが使用人達の誇りである。
特に、レオンハルトの乳母である、マリザ・コネットは、レオンハルトの立ち振る舞い、装い、全てが重要だと彼女は考えていた。騎士団長という立場である事は勿論、侯爵として、そして一人の騎士として、立派な人格者であって欲しい。
「わたしがお坊ちゃまに言わなければ、他に誰が言えましょうか。この老婆の首一つでお坊ちゃまがより良い騎士になるのであれば、そんな物はいくらでも差し出す覚悟でございますよ」
「やめてくれ、マリザ。子供扱いするのも、首を差し出すなど物騒な事を言って私を脅かすのも。お前に口出しされる隙を作った私が悪かった。これから、王都の巡回がてら、昨日の非礼を詫びて来る」
レオンハルトは鏡の前で自分の姿をぐるりと確認して、今日も完璧であると自認した。それから、剣架を一瞥し、本来ならガルドに手入れを頼むつもりだった剣を指差す。
「そちらの剣を今日は帯剣する。副官!」
使用人の一人が恭しく帯剣帯をラインハルトの腰に巻く。王立騎士団団長に相応しい、華美ではないが細やかな革細工が施された帯だ。鞘もまた、黒に近い深い褐色、上質な革張りものだと一目で分かる。金具は金ではなく燻した銀色の金属で、口元と先端だけを静かに補強してある。ベルディス侯爵家の家紋は、見ようとしなければ分からない程度に打ってある。
部屋の扉のすぐそばで待機していた男性が、「はい」と返事をしてラインハルトのそばにやってきた。暗い青色の髪に、眼鏡を掛けた若い男性だ。服装は騎士団の制服ではなく、青を基調としたシンプルな制服。これは、王城に勤務する文官の物である。
彼は騎士団長ラインハルトの副官で、騎士団の執務全般を担当している。副団長は騎士として団長を支える立場なのに対して、副官は文官が担当する。
「エスタビオ、今日の予定は?」
「本日の予定は、五尾様の眼が真上に来るまでは、城下町の巡回です。先日強盗が入った〈薔薇と兎の楽園〉周辺を予定しています。正午を過ぎましたら、王城内訓練場で従魔を用いた模擬戦闘訓練の予定です」
エスタビオ、と呼ばれた副官は淡々と予定を読み上げる。彼の手には大ぶりな本があって、それが手帳になっているようだ。レオンハルトは無表情のまま「例の強盗事件か……」と呟く。
本来ならば、王立騎士団はもっと大規模な戦闘や、王城の守りが主な任務である。城下町や下町にはそれぞれの治安隊がおり、強盗などの事件には彼らが対応することになっている。
ただ、今回は場所が悪かった。〈薔薇と兎の楽園〉は表向きは貴族専用の喫茶だが、夜になれば夜会の華が、一握りの選ばれた貴族や王族を相手に長い夜を共に愉しむ場なのだ。
王族も利用するような店である。普通、強盗が入れるような警備ではない。なのに、事件は起きた。レオンハルトはこの事件についてある程度の予想は立てているが、解決すべきか否か悩んでいる最中だ。
「……巡回先を変更する。私は城下町ではなく、下町に行く。他の騎士達は城下町の情報収集と、治安隊との連携を取るよう念書を取って来るように」
副官エスタビオは、レオンハルトと過ごした時間は短くない。ガルドの手入れが必要な剣を彼が選んで帯剣した時点で、こうなることは分かっていた。
「畏まりました。副団長に伝えて参ります。用事を済まされましたら、王城内訓練場でまた」
エスタビオはそう言うと、くるりと踵を返して部屋を後にした。
レオンハルトの事をよく理解し、且つ事務的な態度を一貫している男。ちらりと後ろ姿に目をやれば、エスタビオの従魔が素早く主の後ろを歩いている。あの従魔は小さくて弱いが、動きが速い上、書類の速達には適役である。また、他人に見られたくない極秘文書を運ぶにも適任だ。
白に明るい灰色の模様をした、その短毛の従魔は、澪が見れば「イタリアン・グレーハウンドだ!」と喜んだに違いない。
そして、事務的で感情を見せないエスタビオが実は、寒がりで甘えん坊なこの従魔を、読書の際には膝に乗せて互いに癒されている、という誰も知らない秘密を、いつか従魔本人から聞くことになるかもしれない。
レオンハルトが「貴族」だということを、描いてみたかったので、
挑戦してみました。
彼の日常は、多くの使用人に囲まれ、何でも思い通りになる生活です。
その中で思い通りにならないのは、騎士団での職務。戦闘における死傷者を出さない事。
生まれた時から完璧なものに囲まれて生きて来た彼ですが、
戦闘ともなればそうは行きません。
それでも完璧にしなくては気が済まない彼が行きついたのが、従魔を犠牲にすることで成り立つ戦法でした。
レオンハルトと澪、二人の大きな意見のズレが、今後どうなってゆくのか。




