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窓から差し込む朝陽が、保健室の白いカーテンに柔らかく透けている。
俺は今日も変わらず、ここに来ていた。
「土日以外は毎日会っていたはずなのに、なんだか久しぶりな気がするね」
白衣を羽織った養護教諭、久遠透子。いつも通り、左手には紅茶の入ったマグカップ。相変わらず、絵になるな。
「今日は何の勉強するの?」
「数学です」
答えながらも、テキストを鞄から取り出し、勉強を始める。
「ふぅん。πが出てくるなら協力できるんだけどなぁ」
「何言ってんだ」
口を開けばこれである。残念美人というやつだ。彼女の発言は、八割下ネタ。これで男だったら、人生が詰んでいること間違いなしだろう。まあ、女でもアウトか。
すると、ふらふらと寄って来て、俺が勉強する机にマグカップを置く透子先生。そのまま、そこに、くいっと腰を乗せる。目の前には、白衣のスリットから覗く脚線美がちらつく。
「もちろん、実技の話だよ。一番得意なのは保健だけどね」
「ナニイッテンダ?」
数学や保健の実技だなんて、17年間の人生で聞いたことがない。
顔も見ずに返す俺に、先生は不満げに口を尖らせた。
だが、すぐにニヤニヤと笑いを浮かべる。不意に身を乗り出し、俺の耳元に唇を近づけてきた。
「純情ぶっちゃって。……本当は分かってるくせに」
ふわっと甘い香りが鼻腔をくすぐる。それと同時に、肩に柔らかい感触。豊満な胸をわざとらしく押し付けてきたのだ。
「ほぉ〜ら、ベッドいこ?……この時間なら誰も来ないから…ね?」
この人は確実に俺のことを舐めている。少しお灸を据えておこう。
「……分かりました。行きましょう」
立ち上がり、彼女の手首を掴みむ。そして、軽く引っ張った。
「ふぇっ!? ちょ、ちょっと直人っ……!? 本気で言ってるのかい!? 」
オロオロと目を泳がせ、両手をわたわたと振る先生。さっきまでの余裕はどこへやら、顔は赤く染まってきている。
そろそろ手を放すか。そう考えていた時──
「失礼しまーす」
保健室のドアが、ガラリと開く。入ってきたのは、朝比奈千晴だった。
彼女の瞳に映るのは、先生の手を引く俺の姿。その場の空気が、一瞬で凍った。
「何を…してるのかな?」
彼女は笑みを浮かべている。それなのに、目だけは笑っていなかった。俺のタマはヒュンってなった。
「ち、違うぞ朝比奈! これは……その……」
握っていた透子先生の手首を離し、必死に言い訳を探す。
「へ〜……ベッドに行くって言ってませんでしたっけ、先生?」
コイツ、俺たちのさっきの会話聞いてたのかよ。
まあ朝比奈は、透子先生にターゲットを変えたようだし、良かったぜ。
「ち、千晴ちゃん!? これは誤解というか、教育の一環というかっ……ね、直人?」
「俺に振るな」
せっかくターゲットから外れたというのに。
「うーん、でも私、ちゃんとノックしたんだけどなぁ……まさか、“誰も来ない時間”とか言って、変なことしようとしてたわけじゃないですよね?」
朝比奈はゆっくりと歩み寄ってきた。足音なんてほとんどしないはずなのに、頭の中で勝手にドスン、ドスンと効果音をつけてしまう。それほどの迫力があった。
再び透子先生を見ると、目を逸らしながら小さくなっていた。
「まったく……先生、再名生くんと仲がいいのは分かりますけど、ほどほどにしてくださいよ」
「うぅ……ごめんなさい……」
「再名生くんも、乗っかってちゃダメでしょ」
「……すまん」
朝比奈は、少しだけふっと笑った。だが、まだ頬は少し膨れている。
「まあ、いーですけど。何も起こらなかったわけだし。ただ……」
朝比奈は俺に身を寄せて、耳打ちしてきた。
「……ホントにその気になっちゃったときは、私に言ってね」
「……欲求不満か?」
萎んでいた頬の膨らみに再度、空気が入れられる。しかし、すぐいつもの人懐っこい笑みに戻った。
「ほら、勉強!勉強!椅子に座って!」
肩を掴まれ、無理やり椅子に座らされる。その笑顔には怒りの気配はなく、どこか楽しそうだ。
まだ耳元に残る吐息の余韻が、妙に気になりながらも、テキストを開く。
そして、ハッと疑問に感じていたことを思い出した。
「……で?」
低いトーンで声を漏らす。
「で、ってなに?」
とぼけたような返事だ。
「どこから聞いてたんだ?」
「……ドアの前に、しばらくいたんだよね」
あっさりと白状した朝比奈は、悪びれた様子もなく続けた。
「早く入ってくればよかっただろ」
「だって…君と会うのは少し恥ずかしいし」
珍しくごにょごにょと話す彼女。
「ん?」
だから、思わず聞き返してしまう。
「…じゃなくて!ノックしたけど誰も返事しないし、中から声はするし……ちょっとだけ、ね」
「ちょっとじゃなかったろ。ベッド行くとかまで聞いてたじゃん」
思わず目を細めると、朝比奈は笑いながら机をトントンと叩く。
「う〜ん、そうかもね。でも、再名生くんがノった時点でドア開けるしかないって思った」
「ノったんじゃなくて、仕返しだったんだよ」
言い訳がましく返したつもりはない。しかし、朝比奈はこちらを訝しむように、じっと双眸を向けてくる。
「ふーん」
どこか納得してない様子だ。まるで、“いざとなったら止められたの?”と言いたげな、追求の瞳。耐えきれず、俺は視線を落とす……と、そのときだった。朝比奈の足元に、目が止まる。
黒いソックスの中から、白いテーピングが顔を出していた。
「……それ、まだ痛むのか?」
「え?」
朝比奈がきょとんとした顔で返す。
「足首。試合の時よりはマシになったか?」
俺は試合後、朝比奈が怪我していることに気がついたんだ。だからといって何かしてあげられたわけじゃない。むしろ試合中、下手に応援したせいで、無理をさせてしまった。彼女の足首を見るたびに自責の念に駆られる。
「大丈夫だよ。まだちょっと違和感あるけど、普通に歩けるし」
そう言いながら、彼女は足を軽く伸ばしてみせる。けれどその動作の後、ほんのわずかに顔をしかめたのを見逃さなかった。
「やっぱ無理してんじゃん……」
「無理してないもん」
すかさず返す朝比奈の声には、どこか拗ねたような響きが混ざっていた。だが、口元にはうっすら笑みが残っている。
「でも……やっぱりあのとき、再名生くんの声が聞こえてなかったら何もできないまま終わってたと思う。私は、そっちの方が辛い。だから、後悔はないよ」
まっすぐに言い切るその姿が、やけに眩しい。
「…そうか」
俺にできたのは、ぽつりとつぶやくことだけだった。
「まあ、そこまで申し訳なく思ってるなら、今度の週末遊びに行こうよ」
いたずらっぽく微笑む彼女。軽口みたいに言うくせに、その声の奥には、ほんの少しだけ期待が滲んでいた。
不意に差し出された提案に、どう答えるべきかと悩む。
「べ、べつに遠出とかじゃなくていいから!あの、映画とか…いやでも観たいのないならアレだし、だっ
たら水族館とか!あと、遊園地とかも久しぶりだし、っていうか甘いものとかも食べたいし!あと——」
勢いのまま、どんどん口が止まらなくなっていく。まるで、少しでも間を空けたら断られるとでも思ってるみたいに。
「朝比奈」
そんな彼女を一度止める。朝比奈は、緊張したように息を飲んだ。
少しの間をおいて、俺は口を開く。
「……ごめん、バイト」
「……え?」
この前、朝比奈の応援のためにバイト抜け出したから、シフト倍になってんだ。




