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試合当日。
私はスタメンとして出場する。足首は、少し痛む。でも、大丈夫。
…大丈夫なはずだ。
足首の痛みについては誰にも言ってない。チームメイトに余計な心配をかけたくないから──、なんて思っているわけじゃない。
ただ、試合に出たい。今までやってきたことを無駄にしたくない。そして、プレーする姿を見せたい人がいる。
だから、私はユニホームに袖を通す。シューズを履く。コートに立つ。
そして、試合開始のブザーが鳴り響いた。
審判が上へと真っ直ぐボールを投げる。綺麗な軌道でジャンプボールが上がった。空中に跳ねたボールをセンターがタップし、私たちのチームが最初の攻撃権を得る。
ボールが回ってきて、ディフェンスが前に立ちふさがった。
本物の試合は、いつもやってるバスケと空気感とまるで違う。
観客席のざわめき、ベンチから飛ぶ声援、引退をかける対戦相手の真剣な表情。
鼓動が早まる。足が震える。呼吸が乱れる。汗が滴る。
始まったばかりなのに、もうすでに試合の後半なんじゃないか、そう錯覚させられるほどのプレッシャ
ーが襲ってくる。
でも、やらなくちゃ。ここが私の待ち望んだ舞台なのだから。
はやる鼓動は、血液を循環させて力を出すため。足の震えは、武者震い。そう頭の中で切り替える。
呼吸を整え、汗を軽く拭い、私はドリブルを刻んだ。ステップを切るたび、右足首に鈍い痛みが走る。でも、それに構っていられない。フェイントを入れ、マークを外す。そして、フリーになった私は、迷わずシュートを放った。
何千、何万、あるいはもっと多くのシュートを打ってきた。積み重ねてきた。全てはここで決めるために。
ボールの軌道は放物線を描き──、
ガンッ!
無情にもゴールネットを揺らすことはなかった。
◇◇◇
ロッカールームには沈黙が流れている。それは、誰かが水を飲む音さえ大きく聞こえるほどだった。
試合は前半を終え、私たちがつけられた点差は、三十。
重苦しい空気の中、過ごし方は人それぞれだった。タオルで顔を覆ってうつむく子、ベンチに背をもたれて天井を見つめる子、拳を握りしめて悔しさを押し殺す子。誰もが、それぞれのやり方で現実と向き合おうとしていた。
その沈黙を、静かに、しかし確実に切り裂いたのは石宮先輩の声だった。
「……今日の千晴、さすがにひどすぎませんか」
誰に向けるでもなく吐き捨てたようなその言葉に、数人が目やる。石宮先輩は、あえてそれを無視して、監督のほうへ顔を向けた。
「動きにキレがない。ミスも多い。誰の目から見てもコンディション最悪だって分かる。なのに、まだ出すんですか?」
語気は抑えているつもりでも、明らかに怒りが混ざっていた。
監督はホワイトボードを見たまま、短く返す。
「わかってる」
石宮先輩は一歩、前に出た。
「じゃあ……私を出してください」
一言で室内の空気がさらに張り詰める。
監督が、石宮先輩に目を向け、独り言のように呟いた。
「いや、俺はまだ試合を諦めたわけじゃない」
一瞬の沈黙。そして、言葉の意味を咀嚼した彼女の表情がぐっと歪む。
「……私は、不調の千晴にも劣るってことかよ」
その言葉は誰に向けたものでもなかったと思う。ただ、その声は怒りというよりも、悔しさと、寂しさが滲んでいた。
ロッカールームは再び静寂に包まれる。けれど、私の中には、石宮先輩の言葉が響いていた。
『ひどすぎる』、『キレがない』、『ミスが多い』、『コンディション最悪』──全部その通りだと思う。
私なりに全力で戦っているつもりだった。足首の痛みもごまかし、緊張を飲み込んで、ボールを追って、走って、飛んで……こんなはずじゃなかったのに。
なぜ監督が、まだ私を使い続けるのか分からない。たしかに、最近は石宮先輩よりも上手くなってきた自覚はある。でも、今の私を使うよりは良い。
監督が「後半行くぞ」と声をかけ、私は反射的に立ち上がった。「頑張れ」と声をかけてくれる子もいた。でも、素直に受け取れなかった。
石宮先輩の視線が突き刺さる。
思いが形にならないまま、私はコートへと向かった。
◇◇◇
後半戦、第3Qが始まってから、何分経ったのかは分からない。
スコアは見ないようにしていた。見たところで、現実がよくなるわけじゃないから。
怪我さえなければ…そんなことは思わない。私の調子の悪さは、それだけのせいとは言えないからだ。
足首の痛みに重なるのは、数多の重圧。それが、私の体を重くする。
コーチの怒鳴り声。味方のため息。観客席の静まり返った空気。
こんなはずじゃなかった。本当はもっと活躍して、勝ち進んで、試合を観てもらいたい人だっていたはずなのに。
またパスが回ってきた。回ってきてしまった。ボールを持ったことで集まる視線。与えられるプレッシャー。
ボールはまるで爆弾だ。爆発する可能性を孕んでいて、味方はみんな、それを誰かに押し付けようとしている。
ゴールを狙うために動くのではなく、パスを回すために動いているみたいだった。
そして、私もまた、同じことをする。
責任をチームメイトに預けようとした瞬間──
「朝比奈ァァァァ!!」
その声が、私の手を止めた。
観客席の上のほう、ひとり立っている見慣れた男の子。再名生くんだった。
…なんで。
彼は、拳をぎゅっと握りしめて、喉が裂けるんじゃないかってほどの声で叫ぶ。
「俺はお前のファンなんだぞおおおお!! だったらよ……いいとこ見せてくれぇぇ!朝比奈ァァァ!!」
……ファンか。
あのとき、私は冗談半分に言ったんだ。『それじゃあ、再名生くんは私のファンだね』って。
彼は、優しく笑って、『朝比奈が試合で、元気にプレーしてる姿を早く観たいよ』そう言った。穏やかで、真っ直ぐで。あの時の彼の声が、今、現実になって私に届いている。
涙があふれそうになる。けれど、それより先に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
そうだ。私には、応援してくれる人がいる。プレーする姿を見たいって、言ってくれた。だったら……
私は唇を噛み、視線を上げた。声援をくれた再名生くんに、恥じないプレーをするために。いや、ただそれだけじゃない。彼が私の「ファン」だと言ってくれたなら——
私も、彼にそれ以上の何か返したい。いつか、あの時の問いに、ちゃんと答えを出したい。
そのためにも戦わなきゃ。
痛みも、不安も、迷いもある。でもそれ以上に、今の私は、声援を受け取った。
そして、右足を力強く踏み出した。




