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部室での件はすぐに職員会議にかけられ、俺には二週間の停学が言い渡された。そして、林道先輩には、なんのお咎めもなかった。俺の言い分は全く聞き耳を持ってもらえず、逆に彼の言い分は驚くほど簡単に信じられた。当然といえば当然だ。 彼は、教師たちからの信頼が厚い。一方俺は財布泥棒の疑惑をかけられている生徒。どちらを信じるのかなんて自明の理なのだろう。
高校からの連絡は家にも入った。その電話で、担任はご丁寧に一学期の財布盗難の件まで母親にぶちまけたらしい。
俺は、激しく罵倒される覚悟をしていた。しかし、母は俺を叱らなかった。
「……直人、ごめんね。本当に、ごめんね……っ」
ただ床に崩れ落ち、ボロボロと涙を流して、何度も何度も俺に謝り続けた。
「私があの人と離婚して……家に、お金がないせいでごめんね。新しいグローブだって、もっと早く、ちゃんとしたやつを買ってあげられたらよかったのに。私が、プロになるくらい頑張れなんて、プレッシャーをかけたせいで……」
母は弱々しく首を振る。
「本当はもう、あの時に部活、辞めたかったんだね。苦しかったんだね……気づいてあげられなくて、本当にごめんなさい」
違う。違うんだ、母さん。 俺は部活を辞めたかったわけじゃない。母さんが無理して買ってくれたあのグローブが、何よりも大切だったから。それをアイツに切り裂かれたから…だから殴ったんだ。
母が自分を責めてしまうくらいならば、俺を叱ってほしかった。お前が全部悪いんだと、大声で怒鳴りつけてほしかった。
母さんが「自分のせいだ」と泣けば泣くほど、その涙が鋭い刃となって俺の胸をズタズタに切り裂いていく。 金を盗んだと疑われたのも、大切なグローブを守れなかったのも、キレて暴力を振るったのも、全部、俺の弱さのせいなのに。
――俺のせいなのだ。全部、俺の。 母さんをこんな風に泣かせているのは、他の誰でもない、俺なのだ。
誰もいない自室のベッドに突っ伏しながら、拳を強く握りしめた。
一週間が過ぎて、何もしない生活が日常になり始めた日の夕方、真里菜からの着信があった。
『……あ、直人… 今、大丈夫?』
スマホから聞こえる真里菜の声は、ひどく暗く、どこか強張っていた。
「うん、大丈夫。どうした?」
『あのね……急にこんなこと言って、申し訳ないんだけど……。私、直人とはもう、付き合えない』
耳を疑う、ということはなかった。 今の俺の状況を考えれば、当然の帰結だった。学校中に広まったであろう『財布泥棒』と『暴力事件』の噂。そんな奴の彼女でいることはデメリットでしかない。
「……そっか。わかった」
俺は、あっさりとそれを受け入れた。今の俺は誰かを幸せにできるような状態じゃない。真里菜をこれ以上、自分の泥沼に巻き込みたくなかった。だから、引き留める権利なんて最初からどこにもない。
だが、電話の向こうの真里菜は、俺の返答を聞いて息を呑んだようだった。少しの沈黙の後、ぽつりと切なげな声が漏れる。
『……そんなあっさり、承諾しちゃうんだ……。いや、ごめん、何でもない』
真里菜の声には、どこか割り切れないような、迷いと未練が混じっているように聞こえた。もし俺がここで「嫌だ」と引き止めていたら、結果は違ったのだろうか。そんな詮無い思考が頭をよぎる。
『……今まで、ありがとう。じゃあね』
胸に穴が開いたような感覚のまま、俺は謹慎期間中の退屈を紛らわせるため、そして母さんの泣き顔から逃げるように、夕方の街へと宛てもなく歩き出した。
冷房の効いたコンビニを出て、駅前へと続く通りを歩いていた、その時だった。
踏切の手前。夕日に照らされた人混みの中に、見覚えのある制服の後ろ姿を見つけた。 揺れる髪。それは、さっき電話で俺に別れを告げたばかりの、真里菜だった。
そして、隣を歩く一人の少年。 ――阿久戸だ。
二人は、ごく自然に、互いの指を絡ませて手を繋いでいた。
真里菜が、阿久戸の言葉に小さく肩を揺らして笑う。 その瞬間、真里菜の「別れの理由」のすべてを理解した。噂のせいなんかじゃない。最初から、あいつの手が伸びていたのだ。
「あはは……っ」
乾いた笑いが口からこぼれる。
夕闇が迫る街の中で、俺は二人の背中が雑踏に消えていくのを、ただ身動きもできずに見つめ続けていた。
◇◇◇
二週間の家庭謹慎が明け、俺は再び学校へと向かうために制服の袖に腕を通した。
本音を言えば、学校になんて死んでも行きたくない。布団を頭から被って、永遠に眠っていたい。だけど、これ以上母さんを心配させるわけにはいかなかった。あのボロボロ流れた涙を思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。行くしかなかった。
「まあでも、最悪クラスで完全に孤立したとしても、授業だけ受けてさっさと帰ればいいだけの話だ。友達がいなくたって死にやしないし、一人で生きていく方が余計な人間関係に振り回されなくて楽かもしれないよな」
どこか他人事のように楽観的な未来を頭に思い描きながら、俺は校門をくぐった。
しかし、そんな浅はかな覚悟は、昇降口に足を踏み入れた瞬間に粉々に打ち砕かれた。
一斉に、周囲の空気が凍りつくのが分かった。突き刺さるような、あからさまな嫌悪と好奇の視線。 「あいつ、今日から戻ってきたんだ……」 「マジでよく来れるよね、泥棒のうえに先輩をボコボコにした奴なんて」
ヒソヒソと交わされる陰口が、嫌な音立てて鼓膜を揺らす。俺は努めて平静を装いながら、自分の下駄箱を開けた。
上履きが、なかった。
ガランとした空間を見て、乾いた笑いが出そうになる。漫画やドラマで見るような、典型的で古典的ないじめだ。 しょうがない。俺は一度昇降口を出て、外履きのまま職員室へと向かった。
「すみません、上履きがなくなったのでスリッパを貸してください」
近くにいた教師に声をかける。
沈黙が場を支配した。教師たちがお互いに、俺への対応を押し付けあっているようだった。返ってきたのは、腫れ物に触れるような、あるいは汚物でも見るかのような冷徹な視線だけ。
もう一度、声をかけた。次は全体に言うのではなく、近くにいた先生に狙いを定めて言った。
「すみません、上履きがなくなったのでスリッパを貸してください」
「あ、ああ……あそこにあるやつ、適当に持っていきなさい」
その目は、一学期に俺を泥棒扱いしたあの担任と同じだった。『お前のような問題児に関わりたくない』という拒絶が、ありありと透けて見えていた。
教室に入ってからも、嫌な空気は蔓延していた。 机に落書きなんてのはされていなかったが、周囲の誰も俺と目を合わせようとしない。授業中も、教師たちの視線がいちいち俺のところで引っかかるような気がして、教科書の内容が全く頭に入ってこなかった。
昼休みになり、母親が作ってくれた弁当を無理やり口に流し込んだ。味わう余裕なんてない。ただの作業として胃袋に詰め込んだ。しかし、昼休みが終わる頃には胃の奥から猛烈な吐き気が込み上げてきて、俺はたまらずトイレへと駆け込んだ。
個室に閉じこもり、便器にしがみついてさっき食べたものをすべてぶちまける。喉を焼く酸っぱい臭いと、激しい動悸。
それでも、なんとか一日目を終えて校門を出た。
「……思ったより辛かったな。でも、大丈夫だろ。人間は慣れる生き物だしな」
夕方の街を歩きながら、自分に言い聞かせるように呟いた。空元気でもいいから、そう思わなければ足が止まってしまいそうだった。明日になれば、来週になれば、きっとこの空気にも慣れる。そう信じるしかなかった。
しかし、現実はそんなに甘くはなかった。
一日、また一日と登校を重ねるうちに、俺の身体は確実に悲鳴を上げ始めた。 相変わらず、毎日のように昼飯を食べるとすぐに激しい吐き気に襲われ、トイレに駆け込んで胃の中を空っぽにした。だんだんと、食べること自体が恐怖に変わっていく。
気づけば、周囲の視線が怖くて、まっすぐ前を向いて歩くことができなくなっていた。すれ違う奴らがみんな、自分の悪口を言っているように思えて仕方がなかった。目線を上げることができず、俺の視界は常に、自分の靴先だけを捉えるようになる。
休み時間になれば、どこからか陰口が聞こえてくるような気がした。だから、チャイムが鳴った瞬間に俺はポケットからイヤホンを取り出し、耳に深く押し込んだ。 大音量で流れる音楽だけが、俺を冷酷な現実から遮断してくれる唯一の壁だった。下を向き、耳を塞ぎ、自分の殻の中に閉じこもる。そうして息を潜めていることしか、今の俺にはできなかった。




