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やっと退部届を出せた。あれ以来、部活に顔を出しておらず、実質やめたようなものではあったが、正式に辞めることができた。
熱中症から復帰した監督からは「事情は察している。頼むから辞めないでくれ」と引き留められたが、もう無理だった。あの男が平然とキャプテンの面をして座っているマウンドに、どんな顔をして戻ればいいというのか。
今は放課後。本当ならば、もっと早く帰宅するつもりだったが、思っていたよりも監督の引き留めが長引いたのだ。
「久しぶりに人と話して疲れたな」
まともに人と会話するのは久しぶりだった。学校でも家でも会話はほとんどない。慣れないことをするのは疲労がたまるのだ。
職員室を出て、本当ならこのまま真っすぐ昇降口へ向かい、下ばかりを見つめるいつもの下校路に逃げ込むはずだった。だけど、なんとなく、引き寄せられるように階段を上っていく。二階、三階、さらにその上へ。
たどり着いたのは、普段は立ち入り禁止になっているはずの屋上だった。なぜか鍵が開いていた重い鉄扉を押し開けると、夕暮れ時のぬるい風が、イヤホンを外した耳を撫でた。
フェンスに近づき、眼下に広がる光景をぼんやりと眺める。
校門へと続く道には、楽しそうに手をつないで帰るカップルや、お互いの肩を小突いてふざけ合いながら歩く男子生徒たちの姿があった。つい数ヶ月前までは、俺もあの平穏な日常のすぐ側にいたはずなのに、今ではまるで違う世界をのぞき見しているような気分だった。
視線をグラウンドへと移す。 そこでは、いつもと変わらずに野球部が大きな声を張り上げて練習を行っていた。 マウンドの上、綺麗なフォームで白球を投げ込んでいるのは、林道先輩だ。俺の大切なものをズタズタに引き裂いた男が、何事もなかったかのようにエースとして、キャプテンとして、チームの中心に君臨している。その姿を見ても、もう怒りすら湧いてこなかった。ただ、胸の奥が空っぽになっていくような、底知れない虚しさだけが残る。
「……はぁ」
小さくため息をつき、柵に両肘を預けて遠くの夕日を見つめる。 疲れたな、本当に。
その時だった。
背後で静寂を切り裂くような凄まじい音が響いた。 勢いよく跳ね上がった屋上の扉の向こうから、一人の女性が息を切らせて飛び出してくる。
「待って! 早まらないで、再名生くん!!」
必死の形相で叫びながらこちらに向かって走ってきたのは、養護教諭の久遠透子先生だった。
「……先生、落ち着いてください。俺、別に死ぬつもりなんてないですから」
俺が引いた声で冷静に告げると、久遠先生はその場でピタリと足を止めた。 乱れた息を整えながら、じっと俺の顔を見つめる。
「……そう。勘違いならよかったよ。少し、早とちりをしてしまったね」
久遠先生はゆっくりと俺に近づき、綺麗な瞳で俺の身体を上から下へと値踏みするように眺めた。
「君とは早く話したいと思っていたし、話さなきゃいけないと思っていた。けれど……もっと早く話すべきだったね。こんなに痩せてしまって。すまなかった」
毎日昼飯を吐き戻しているせいで、制服の肩のあたりは以前より明らかに肉が落ち、すかすかになっていた。その変化を、先生は見逃さなかったらしい。
しかし、それが何だというのか。俺にとって、この学校の教師は全員が警戒すべき対象だ。
「俺に何を話そうって言うんですか?」
「……うん。突然だけど、保健室に来ないかい?……教室に行かず、保健室へ登校する。そんな手段を選んでみないかい?」
「なぜ?」
警戒を隠そうともしない俺の問いに、久遠先生は表情を一切変えずに淡々と言い放った。
「私は君の事件を全部、冤罪だと思っている。それかもしくは、何らかの理由があって起こったものだと思っているからさ」
「……何の根拠があって、そんなこと言ってるんですか?」
思わず声が尖る。誰も、母親でさえも信じてくれなかったのに、今更この女は何を言っているんだ。そんな無責任な同情なんて欲しくない。急激にこみ上げてきた感情の波に、胸の奥が激しく掻き乱される。
「まあ、勘としか言いようがないんだけどね。君を信じているからだよ」
一歩、また一歩と距離を詰めてくる先生から逃げるように、俺は目を背けた。視界がかすみ、喉の奥が熱くなる。
「……あんたは俺の何を知ってるっていうんだよ」
「私は君が思っているよりも君を知っているよ」
久遠先生は俺の目の前で立ち止まり、静かに包み込むような声音で言葉を重ねた。
「もっとも、君を知ったのは、この前会ってから後のことになるのだがね」
「……何言ってるか、分かんねーよ」
意味の分からない言葉への苛立ちと、張り詰めていた糸が切れそうな恐怖から、俺の口調はさらに荒くなった。だが、先生はそんな俺の拒絶をすべて受け止めるように、まっすぐに見つめてくる。
「すまない。とにかく、保健室に来ないかという提案だ」
「 行って何になるんだよ! 俺に構うなよ!」
叫ぶような俺の声が、夕暮れの屋上に虚しく響く。もう誰も信じたくない。これ以上傷つきたくない。そんな俺の心の叫びを見透かしたように、久遠先生は一歩、踏み込んだ。
「私が守ってあげられる。味方になってあげられる」
その瞳には、一切の迷いも嘘もなかった。世界中が敵になっても、自分だけはここにいると告げるような、圧倒的な覚悟が宿っていた。
「そんなの……」
「これは絶対だ。絶対に私が何とかするよ」
「絶対なんて……あるわけないだろ!」
「責任は全て私が持とう」
久遠先生は、俺の震える声をかき消すほどの確固たる口調で言い切った。
「もし、今以上に君の状況が悪くなったら、恨んでもらって構わない。全てを、私のせいしてもらって構わない。」
そこまで言い切ると、先生はそれまでの張り詰めた覚悟の表情を少しだけ緩め、泣き出しそうな俺の顔を覗き込んできた。
「生徒を守るのが教師の役目なんだぜ……ってね」
お世辞にも上手とは言えない、少し不器用なウインクを添えて。
差し伸べられたその手の温かさと、あまりにも似合わないその不器用な仕草が、俺が頑なに閉ざしていた心の扉を、静かに、だけど確かにこじ開けていく。 あたたかい夕日に包まれた屋上で、俺は溢れそうになる涙をこらえることもできず、ただ久遠透子という女性の姿を視界に収め、その声に耳を傾けた。
◇◇◇
「……直人くん? 急に黙り込んでどうしたんだい」
目の前でひらひらと手を振る透子先生の姿が視界に入り、俺はハッと我に返った。 一年前の、あの息もできないほど苦しかった夏の日々。そこから俺を引っ張り上げてくれたのは、この人だった。
「いえ、なんでもないです。……ちょっと、昔のことを思い出していただけです」
「ふうん。まあ、君がこうして元気に保健室に来てくれているなら、それでいいけれどね」
透子先生はそう言って、それまでの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
まだ、失ったものすべてを取り戻せたわけじゃない。野球への未練も、あの時の傷も、完全に消えてなくなったわけじゃない。 だけど、この人が隣にいてくれる限り、俺はもう、あの暗い絶望の底へ落ちていくことはないのだと思う。
「さあ、今日も特等席で勉強を始めようか、再名生くん」
「はい、透子先生」
窓から差し込む太陽の光が、保健室の白いカーテンを照らしている。 そんな穏やかな空間で、俺は静かに教科書を開いた。




