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雲ひとつない空がどこまでも続く夏の朝、私は生まれた。朝比奈千晴という、ちっぽけな存在として。
私は他人からよく言われる3つの褒め言葉がある。優しい、笑顔が素敵、悪口を言わない。これ以外の言葉で褒められたことは、ほとんどない。そして、この言葉達は私にとってよいものとは言えなかった。
私が優しいのは、自分の意見がなくて相手の要望通りに事が動くからだ。断らず、相手の都合の良いように動く。それが私だ。
私の笑顔が素敵だなんて言われるのは、きっとたくさん笑ってきたからだろう。だけど、その笑みは作り笑い、愛想笑いすぎない。笑って誤魔化しながら生きてきた証拠だ。
私が悪口を言わないのは、自分に自信がないからだ。相手の悪いところより、自分の悪いところの方が大きいと感じる。劣っている奴が、優れている人に文句を言えないだけだ。
しかし、こんな私にも譲れないものがある。それはバスケットボールだ。小学生の時から始めて、現在もまだ続いている。
でも、なぜ続けているのかが分からない。なぜ努力するのかも分からない。分からなくなってしまった。
ただ、辞めてしまったら私という存在が、アイデンティティが薄れてしまうような気がする。だって私には、バスケ以上に時間をかけたものはないのだから。それを辞めたら、きっと空っぽだ。
部活動で、練習試合が行われる。そこで、私の自主練の成果が発揮されることはない。
「おい、朝比奈!どフリーだったろ!しっかり決めろ」
監督から叱責の嵐。
顔を俯かせ、下唇を噛む。けれども、すぐに目線を上げる。
「…はい!」
私は気丈に振る舞い、返事をするのだ。
休憩中にヒソヒソと聞こえるチームメイトの声。
「朝比奈さんって1番早く練習してるんだよね」
「でも、全然ダメじゃん。なんかカワイソー」
「バスケ向いてないんじゃい?」
シュートを外すたび、自分の価値が薄れていく感じがする。
そして、チームメイトが失敗するたびにホッとする自分がいる。
「醜いな、私」
今日も朝練だ。私は何度もシュートを放つ。
ガンっ、ガンっ、とリングに当たる音だけが響く。
「…入らない」
毎日、練習してる。たくさんの時間を費やしている。それでも、上達している気がしない。むしろ、下手になってる気さえする。
「なんでこんなにやってるんだろ」
実力がないなら努力すればいい。でも努力すればするほど、シュートを打てば打つほど辛くなっていく。他の人は自分よりやってなくても上達していくから。
「よお、朝比奈」
突然、自分の名前を呼ばれたことに少し驚いた。声の方へと視線を向ける。
そこには、体を少し傾かせ、扉に体重をかけて佇む再名生くんがいた。
多分、カッコいいと思ってあのポーズを取っているのだろう。めちゃくちゃダサい。
「俺がおまえにバスケの何たるかを教えてやる。勝負だ!」
なぜか勝負をふっかけられてしまった。でも、再名生くんが運動部だったという噂は聞いたことがある。練習相手になってくれると言うなら、有り難い。実はものすごく上手いかもしれない。そうして1on1をすることになった。
「先行は俺にくれ」
「いいよ」
男と女の差はあれど、彼はバスケ部じゃない。先行が欲しいと言われて、快く首を縦に振る。
「じゃ、いくぜ。…10本でいいかな」
彼は両手でボールを突き始めた。
「何やってるの?」
「よりいっぱいのもんで支えた方がいいかと思って」
「…真面目にやって」
「…わかった。でも、後悔しても遅いぞ」
やっと真面目にドリブルを始めた。そして、彼が仕掛けてくる。
「必殺!レッグスルー」
やろうとしてる技を宣言する素人の相手。おまけに、必殺!なんて厨二病全開である。
右手から股の間にボールを通し、左手へ。やっぱりある程度動けるじゃん、と感心したのも束の間。
股の間でバウンドしたボール。その鋭い弾道は、不可避の軌跡を描き、彼の急所を的確に捕らえた。
「ぐぅ……っ!」
鈍い衝撃音と共に、彼の表情が苦悶に歪み、膝をガクガクと震わせる。
それでも、彼は決して倒れなかった。一筋の涙をこらえ、痛みに耐える瞳は、こちらを真っ直ぐに見据えている。諦めるどころか、むしろその目には一層強い光が宿っていた。まるで、股間の痛みさえも己の闘志の糧にするかのように…
「いや、そんなに気合入れられても困るんだけど!」
「心配するな。次は朝比奈が攻めてこい」
気合を入れ直した彼が、私にボールを手渡してくる。笑顔というより、痛みをごまかすための引きつった笑みだ。それでも彼の目は真剣そのもの。
「……分かった」
私は深呼吸をしてから、ジャブステップ。そして、ドリブルを始める。緩急をつけ、相手を揺さぶるようにリズムを変える。
彼はその動きに合わせてステップを踏んだ。完璧に私の進路を塞いでくる。
けれど、私が切り込んだ瞬間、少し体が接触する。
「ひゃんっ!」
この声を出したのは私ではない。再名生くんだ。彼の目が丸くなり、顔が一気に赤くなる。私の肩がちょっと胸に当たっただけなのに。
「な、なんか……女の子の柔らかさを感じる!」
「感じなくていいから!」
ディフェンスのはずが、勝手に一人で赤面して後退してる。
これなら簡単にシュートを打てる。
結局、私がシュートを決めるのを見届けた彼は、なぜか胸を押さえてしゃがみ込んだ。
「うぅ……俺、ディフェンスするとか無理かもしれない……」
「はああぁぁぁ」
1on1では勝負にならないので、フリースロー対決をすることになった。
彼はひっくり返ったカエルのようなフォームでシュートを放ち、見事全て外した。
「…何やってんのさ」
自然と口から溢れた。
この言葉は彼に対してだけでなく、自分に対して向けたものでもある。
私は何をやっているのだろう。朝早く体育館に来て遊んでいるだけじゃないか。こんなんじゃ、練習にならない。時間の無駄だ。昨日だったら数十本のシュート練習を終えていた時刻のはず。
でも…心がぽかぽかする。
「どうやったらいいのか教えてくれ」
「ふふっ、仕方ないなぁ」
バスケをやっていてこんな気持ちになるのは久しぶりだった。
◇◇◇
「だんだん様になってきたね」
彼に教えてから少しの時間が経過した。先程までとは比べものにならない上手さだ。わざとふざけていたのかとも思えてきた。
私、勝負事でふざける人はあまり好きじゃないんだけどなぁ。
「ほんとか? だいぶ感覚掴めてきた気がする」
彼の笑顔は屈託がなく、部活に縛られていない自由さを感じさせた。
それが、私には少し眩しかった。
「バスケやるの辛いか?」
突然、再名生くんがふっと声を落としてこちらを見つめてくる。
一瞬だけ息を呑んだ。
さっきまで笑っていたのに、急に胸の奥を掴まれた気がする。
なんで…?どうしてそこまで踏み込んでくるの?
「なんでそんなこと、聞くの…?」
私は小さな声で答えた。苦笑いすら浮かばない。本当はずっと聞かれたくなかった質問。
でも、彼は迷わずそこに触れてくる。
「そう見えるからな」
「……辛いよ。出来ない自分に気づかされるたびに、嫌になる」
俯いて、視線を外す。
「……」
「練習しても、上手くいかなくて。周りはどんどんうまくなるのに、私だけが置いていかれる。そんな気がしてさ……」
呟くうちに、声が震えてしまった。
言葉にすればするほど、自分の弱さが露わになっていく気がして怖い。それでも、なぜか止まらなかった。
「私、バスケが好きで続けてるはずなのに……いつの間にか“やめたくないだけ”になってて」
目を上げると、再名生くんは真剣な顔でこちらを見ていた。それを見ていると、不思議と少し楽になる。まるで、否定なんかされないと分かっているかのような、優しい空気を感じた。
「俺はさ、バスケ詳しいわけじゃないけど……思うんだ」
再名生くんは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「出来ないって、最高だと思う」
「……え?」
何を言っているのか分からなくて、思わず聞き返す。
彼は苦笑いしながらも、どこか自信のある声色だった。
「何でも出来たら、きっと人生は退屈だ。俺はゲームなんかやってると特に実感するんだが、強くなって、敵を簡単に倒せるようになると。一気に冷めるんだ。あれ?もうやることなくね?って。でも逆にさ、勝てなかったり、思い通りにいかなかったり、そういう時期ってさ、実は一番面白い場所にいるんだよな。だから、出来ないってのはさ――上達する楽しみを残した最高の状態なんじゃねーの?」
私は、ぽかんと彼を見つめていたと思う。
最高の状態。
そんなふうに考えたこと、一度もなかった。
「……なんか、ずるいね」
「え?」
「そうやって、出来ないことも肯定できるの」
思わず口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
苦しかった気持ちが、少しだけほぐれていく。まるで重たい荷物をひとつ降ろしたような、そんな感覚だった。
「俺は本当に不器用でさ、上手くやれないことの方が多いから……せめて、そこを楽しまないとやってられねぇんだよ」
再名生くんはそう言って、また笑った。
「……うん。ありがとう」
気づけば、私は少しだけ微笑んでいた。
気休めかもしれない。きっとまた、思い通りにいかなくて悔しがる自分がいる。
でも今だけは、負けそうな気持ちじゃなく、前を向いていたい。
「じゃあ、その最高の状態を活かして、ちゃんとディフェンスしてもらおうかな」
「えっ、ちょ、まっ、今の感動的な流れぶち壊すの!? 俺の名言をもう少し噛み締めてくれよ」
「はい、重心落とす! 動いて!」
「鬼か、君は!」
ふふっと笑いがこぼれた。
さっきまでの重さが、嘘みたいに消えていた。まだ大丈夫。私は、バスケが好きだ。
そして、今の状態も、悪くないと思えた。




