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更衣室から教室へ続く階段が、これほど長く感じたことはなかった。肩に食い込むカバンの重みは、まるで数キロの鉄塊だ。
教室の前で足を止める。エアコンによる冷えた室温を保つためか、入り口は隙間なく閉まっていた。
ゆっくりと、取っ手に触れる。
普段通りの空気であってくれ。そう願わずにはいられなかった。もっとも、何をもって普段通りと呼ぶのか、俺にはもう判別がつかなくなっていたが。
意を決して開け放った先には、期待していた光景などなかった。当然と言えば、当然だろう。何せ、俺が阿久戸の財布を持っているのだから。
「……やっぱり、ないなぁ」
「こっちにも見当たらない」
「隅々まで探したけど、全然だな」
女子生徒たちも加わり、教室内は異様なまでの緊張状態にあった。どうやら俺たちが戻る前に、阿久戸の財布紛失の報はクラスメイト全員に知れ渡っていたらしい。
一歩足を踏み入れると、ざわついていた教室が水を打ったように静まり返った。数十対の視線が突き刺さる。
「……直人」
誰かが名前を呼んだ。その声に含まれた疑義の念に、心臓が跳ねる。
「ねぇ、みんな一度自分の荷物を再確認してみた方がいいんじゃない?」
クラスの一人が声を上げた。そして、各々が確認し始める。
「さっきも見たけど、私のところには入ってない」
「ないよー、僕のとこにも」
口々に上がる否定の声。そのやり取りが繰り返されるほどに、確認の終わっていない一人への包囲網が狭まっていく。
「……やっぱり、直人のカバンの中なんじゃないのか?」
誰かが呟いたその一言は、クラスの室温を急激に下げるようなものだった。
「やめてよ、みんな。さっき更衣室でも聞いたけど、再名生くんは『持ってない』って言ってたよ。信じてあげようよ」
阿久戸が割って入った。いつもの優しいフォローだ。
「口では何とでも言えるだろ」
「たしかに。本人が否定してても、別の誰かが確認した方がハッキリするよね」
俺はカバンの持ち手を、壊れそうなほど強く握りしめた。
「……っ」
心臓がうるさい。呼吸が上手くできない。額から冷たい汗が流れ、制服の襟を濡らす。
「直人、見てもいいか?」
一歩、また一歩と距離を詰めてくるクラスメイト。
その時だった。
「私が、確認するわよ」
凛とした、しかしどこか震えるような声が教室に響く。 声の主は真里菜だった。彼女はいつになく緊張した面持ちで、俺の前に立つ。
「真里菜……」
「いいでしょ? 私が中を見て、みんなに報告すれば」
もし彼女が中を検めれば、確実に阿久戸の財布を見つけてしまうだろう。その際、みんなに正直に打ち明けるのか、それとも白を切るのか。なんとなくだが、後者を選ぶつもりなのだと感じ取った。
真里菜は、こちらの様子が明らかにおかしいことに気づいている。吐き出した「入っていない」という言葉が嘘であることを察しながら、それでもなお、この窮地から救い出すために自らも泥を被る覚悟をしている。
彼女が「なかった」と断言してくれれば、この場は収まる。そうしたら、あとでこっそり阿久戸に返せばいいのだ。真里菜さえ味方をしてくれるなら、最悪の事態は免れるかもしれない。
張り詰めていた心の糸がわずかに緩み、縋り付くような思いでその背中を見つめた。
しかしながら、そんな微かな希望は、一瞬にして打ち砕かれる。
「いや、それはダメだろ」
残酷な拒絶の声が上がる。
「二人は付き合ってるんだし、かばうかもしれないだろ?」
「私は別に、彼氏だろうと温情をかけたりしないわ! 」
真里菜が必死に食い下がる。その必死さが、逆に周囲の疑念を煽っていることに、彼女は気づいていない。
「それでも念のために…な。阿久戸の友達である俺らが確認するか、あるいは全く関係ない第三者がやるべきだよ」
クラスメイトの冷徹な言葉に、真里菜は言葉を詰まらせ、悔しそうに唇を噛んだ。
助け舟すらも沈められ、俺はただ立ち尽くすことしかできない。思考が麻痺し、指先ひとつ動かせないでいた。
その隙を突くように、背後から乱暴な声が飛ぶ。
「よし、だったら俺が確認してやるよ!」
次の瞬間、肩にかかっていた重みが強引に奪い去られた。
「よっしゃ、取ったぜ!」
クラスメイトの一人がカバンを持ち上げ、教室の中央へと躍り出る。
「なっ、やめろ……返せ!」
反射的に手を伸ばしたが、両脇から伸びてきた別の腕が、逃げ道を塞ぐように俺の体を力任せに押さえ込んだ。
「まぁまぁ、落ち着けよ直人。中身を確認したら、疑いも晴れてすぐ終わるだろ?」
「そうだぜ。そんなに抵抗すると、逆に怪しまれるぞ。やましいことがないなら、堂々としてろよ」
必死に抗おうとするが、複数人の力には抗えない。「やめろ、勝手に見るな!」という叫びは、周囲の野次と嘲笑に虚しくかき消された。
奪った男は下卑た笑みを浮かべ、右手をカバンの底へと潜り込ませた。やがて、獲物を仕留めた漁師のごとき歓喜に相好を崩し、それを高く掲げる。
「これって……阿久戸の財布じゃねーか」
紺色の革が、窓からの陽光を弾いて鈍い輝きを放った。
一瞬の静寂。直後、教室を支配していた緊張は、爆ぜるような罵声とどよめきに取って代わられた。




