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体育の授業終わり、湿った熱気と制汗剤の匂いが充満する更衣室。クラスメイト達が騒がしく着替えを進める中、阿久戸の困惑した声が響いた。
「あれ?僕の財布がない」
その一言で、更衣室内の喧騒が、まるでスイッチを切ったかのように一瞬で静まり返った。凍りついた空気が肌を刺す。
「おいおい、数日前にも同じようなことあったばっかじゃん」
「また、直人のとこに入ってたりして」
冗談っぽく投げかけられた言葉だったが、誰も笑っていない。その場にいた全員の視線が俺に集中した。底冷えするような本気の疑念が混じった残酷な瞳だ。
心臓の鼓動がうるさい。まるで、耳のすぐ傍で鳴っているかのように激しく鳴っている。
「……まさか、な」
自分でも驚くほど乾いた声が出た。
ゆっくりとカバンの中に手を入れ、隅々までまさぐる。
指先に触れる布の感触、スマホの硬質な手触り、そして――
……あ。
カバンの底に、場違いなほど滑らかな革の質感が潜んでいた。引きずり出すまでもない。阿久戸の財布だ。
悪寒が背筋を駆け上がった。
なんでだ。なんで、俺のカバンに。
周囲の視線は、もはや好奇の目ではなく、確信を持った断罪の目へと変わりつつあった。
正直に言ったとして、こいつらは信じてくれるのか? 「なぜか俺のカバンに入っていたんだ」なんて、そんな都合のいい話が通用するわけがない。一度目ならまだしも、二度目なんだ。前回の件でさえ疑いの目は消えず、悪意に満ちた噂が蔓延している。そんな最悪の状況で、誰が俺の潔白を信じるというのか。
むしろ、今これを出してしまえば、「二度目をやった」という事実が「一度目も本当に盗んだ」という確信に変わってしまう。 「阿久戸が庇ってくれたのに、また裏切ったのか」 「やっぱり、あいつは盗っ人なんだ」 そんな罵詈雑言が、幻聴のように耳元で渦を巻く。全身の震えが止まらない。耐えられない。怖い。周りの連中の、あのゴミを見るような、社会から抹殺しようとする冷酷な目が何よりも怖かった。
……でも、阿久戸なら。阿久戸ならきっと、今回も俺を信じてくれる。この前だって、あいつだけは俺の言葉を疑わなかった。なら、今回も。
それなら、今は黙っていればいいのではないだろうか。ここで白日の下に晒すのではなく、放課後にでも、誰にも見られない場所でこっそり阿久戸に返せばいい。「なんかまた、俺のカバンの中に紛れ込んでたんだよ」と伝えれば、あいつなら分かってくれる。笑って、「災難だったね」と言ってくれるはずだ。よし、だったら──
「……俺のカバンには、入ってないぞ」
なるべく平静を装って言葉を発した。だが、俺の心臓は肋骨を内側から叩き割らんばかりに暴れている。
「……そっか。再名生くんが、入ってないって言うなら、そうだよね」
阿久戸がこちらを向き、いつもの穏やかな笑顔を向けてくれた。
「みんな、やめてよ。再名生くんがそんなことするわけないじゃないか」
阿久戸はクラスメイトをたしなめるように言った。そして、ゆっくりと俺に歩み寄ってくる。
「ね、再名生くん? 君が僕の財布を盗むなんて、ありえないもんね」
彼は目の前で立ち止まると、覗き込むようにして顔を近づけてきた。
「……そう、だな」
阿久戸は満足げに目を細めると、俺の肩を叩いた。
「とりあえず、教室に戻ろうか。もしかしたら、教室に置きっぱなしの可能性もあるし。ね?」
彼は何事もなかったかのように身を翻し、軽やかな足取りで更衣室の出口へと向かった。
クラスメイトたちも、口々に「なんだよ、人騒がせな」と不満を漏らしながら、あいつの後に続いていく。
静まり返った更衣室。 俺は一人、爆弾を詰め込んだかのようなカバンを手に持ち、冷や汗を流しながら立ち尽くした。
「……クソ。こんなもの、持っているだけでリスクが高すぎるだろ」
さっきは「放課後にでも返せばいい」と考えたが、そもそも直接返す必要なんてあるのだろうか。どこか適当な場所に置いておいた方が安全なんじゃないか。
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。だが、もし俺が放置したあとに悪意のある誰かが拾えば、阿久戸の財布は本当に返ってこなくなる。自分の身の潔白を守るために、阿久戸が犠牲になってしまうかもしれない。それは避けたかった。
「かといって、落とし物として学校に届けるのも……無理だよな」
高校の事務室にある落とし物コーナー。そこに届けるという案が浮かんだ。しかし、うちの学校は、紛失物の扱いに関するルールが厳しい。以前、財布を盗んで中身を抜き、空になったものを拾ったという形で、落とし物コーナーに届けた奴がいた。そのせいで、落とし物を拾った際は「発見場所」と「詳細な時刻」、そして「自分の名前」を必ず記入させられる。今この状況で俺が届け出るのは、怪しすぎるだろう。
「結局、直接渡すしかないのか」
もう、これしか道はない。俺の足りない頭では、他の案は思いつかない。放課後、誰もいなくなった教室か、あるいは一緒に帰る道すがら。二人きりの状況を作って、阿久戸にだけ真実を話す。その時に「またカバンに紛れ込んでいた」と伝えれば、阿久戸ならきっと分かってくれるはずだ。
「大丈夫だ。放課後になれば、確実にあいつに返せる。……放課後まで待たなくても、チャンスはあるだろ」
自分に言い聞かせる言葉は空虚に、更衣室の壁に跳ね返る。震える手でカバンを左肩にかけ、阿久戸の待つ教室へと歩き出した。




