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授業が終わっても、俺の心臓の鼓動はまだ正常なリズムに戻っていなかった。ノートの端は、無意識に握りしめていたせいでシワが寄っている。
授業と授業の間の10分休み。その喧騒が始まる中、俺は席を立ち、真っ先に阿久戸の元へ向かった。
「……阿久戸。さっきは、かばってくれてありがとうな。マジで助かった」
心からの謝辞を伝えると、阿久戸は教科書を机にしまいながら、ふっと口角を上げた。いつもの穏やかな表情だ。
「お礼を言う必要なんてないよ……だって僕は、本当のことを言っただけだから」
そう口にして俺を安心させたかと思えば、阿久戸は悪戯っぽい目でこちらを覗き込んできた。
「でも、再名生くん。みんなから疑われた時、ものすごい焦った顔になってたよね。ちょっと面白かったよ」
「……お前なぁ」
こっちは人生最大のピンチかと思うくらい心臓がバクバク言っていたってのに、こいつは何を観察しているんだ。
「笑い事じゃないって。俺、本当に自分がどうにかなっちゃうんじゃないかって思ったんだからな」
「あはは、ごめんごめん」
そんなやり取りをしていると、さっき声を上げてくれた他の友人たちも集まってきた「災難だったな」、「大丈夫か?」と背中を叩かれ、彼らにも頭を下げた。
「みんなも、ありがとう。あそこで味方になってくれなかったら、俺、今ごろ職員室に連行されてたかもしれない」
すると、一人が後頭部を掻きながら、意外なことを口にした。
「いや、まあ……俺らも直人がやってないだろうなとは思ったけどさ。阿久戸があそこまでハッキリかばうなら、本当にやってないんだろうな、って確信が持てたっていうか」
「そうそう。阿久戸が言うなら間違いない、みたいな空気あるしな」
友人たちの言葉を聞いて、俺は思わず阿久戸の顔を見た。 当の本人は「買い被りすぎだよ」と苦笑しているが、俺は内心、激しい衝撃を受けていた。
阿久戸は、俺の想像以上に周りからの信頼を得ている。ただ「いい奴」なだけじゃない。彼が口にする言葉には、クラスの空気を一変させるだけの重みと、揺るぎない信頼が宿っているのだ。
いつの間にそうなったのか。阿久戸の、人の懐の中に入る能力。それは単なる社交性とは違う、もっと静かで強力な何かを感じさせた。
◇◇◇
練習を終え、部活の道具を肩に担いで校門へと向かう。すると、街灯のオレンジ色が一人の影を長く伸ばしていた。
「真里菜……待っててくれたのか」
声をかけると、彼女は伏せていた顔を上げた。いつもなら、少しばかりの笑顔を見せてくれる彼女だが、今日はどこか痛みをこらえるような、複雑な表情を浮かべていた。
「お疲れ様。帰るわよ」
並んで歩き出すものの、俺達の間にはどこか重苦しい沈黙が流れている。
「いやぁ……今日は本当に大変だったよ。いきなり疑われちまってさ。机の中から財布が出てきたときは、マジで心臓が止まるかと思った」
おどけた調子で、重苦しい空気を振り払おうとした。しかし、隣を歩く真里菜からの返事は、あまりに素っ気ないものだった。
「……そうね」
俺は思わず足と止める。
「真里菜、どうした? なんか変だぞ」
覗き込むように問いかけると、彼女は視線を地面に落としたまま、固く結んでいた唇を震わせた。
「……かばってあげられなくて、ごめんなさい」
消え入りそうな声だった。その言葉の裏にある彼女の葛藤が伝わってきて、俺は慌てて首を振った。
「いや、いいんだよ。あの状況で、いきなり声を上げるなんて普通は無理だ。阿久戸が異常なだけだよ」
本心だった。だが、真里菜は俺を見ようともせず、自嘲気味に言葉を続けた。
「違うの……。私、あの時、直人の心配じゃなくて、自分の心配をしてたの」
彼女の声が、夜の静寂に鋭く刺さる。
「直人が疑われてるのを見て……『もし直人が本当に犯人だったら、付き合ってる私は周りからどう見られるんだろう』って、そんなことばっかり頭に浮かんできちゃって。直人を信じることより、自分の立場を守ることばかり考えてた……」
「誰だって、一瞬は自分を守ろうとするもんだろ」
「……ほら、またそうやって簡単に許す」
真里菜は苦いものを口にしたような顔で、俺を睨むように見上げた。
「今の発言だってきっとそう。直人なら許してくれる、こんな私を肯定してくれるって分かってたから言ったのよ。自分の罪悪感を軽くするためにね。……どこまでいっても、自分のことばっかりなのよ」
どうやら、相当に参っているらしい。俺はそんなこと全く気にならない。だが、今の彼女にとっては、自分の中にある「打算」が許せないものだったのだろうか。
出会った頃の西遊真里菜は、正直言って自己中心的な人物であると感じていた。自分の望む方向へ、自然に相手を誘導するのが驚くほど上手い。そんな印象が強かった。しかし、最近の彼女は、不器用ながらも俺に寄り添おうとしてくれることが多い。その変化のせいで、余計に傷ついているようにも見えた。
「そんじゃ、次なんかあった時は頼む」
二回も財布を盗んだ容疑をかけられるとは思わないが、俺はそう言葉をかけた。
真里菜は何かを言おうと唇を動かす。だが、思い直したように強く口を閉ざしてしまった。これ以上言葉を重ねれば、それはまた自分を正当化するための「言い訳」になってしまう――そう直感して、自らを律したのかもしれない。
俺がそう言うと、真里菜は何かを言いかける。だが、そのままぎゅっと口を閉ざしてしまった。これ以上言葉を重ねれば、また自分のための言い訳になってしまう。そう直感して、自分を律したのかもしれない。
俺たちは沈黙を守ったまま、ただ夜の静寂に足音を響かせた。




