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教室にて、俺の顔を覗き込むようにして声をかけてきたのは阿久戸正だった。
「……なんか、今日、元気そうだね。再名生くん」
そんなに顔に出ていただろうか。
「……まあな。母さんにグローブ買ってもらったんだよ」
「へえ、グローブ?」
「ああ。しかも、俺がずっと欲しがってたモデルでさ。……正直、驚いた」
窓の外を流れる雲を眺めながら、母の顔を思い浮かべる。
「うちは……その、離婚したから、今までより確実に家計は苦しいはずなんだ。それなのに、あんな良いグローブ、無理して買ってくれてさ……親父からどれくらい養育費とかを貰ってるのかは知らないけど」
独り言のように漏らした言葉には、感謝と、それ以上に「恩返しをしたい」という静かな覚悟が混じっていた。母が自分の何かを削ってまで、俺の右腕に託してくれた期待。その重みが、今は心地よかった。
「そっか。良かったね、再名生くん」
阿久戸は、いつもの穏やかな、けれどどこか核心を見透かすような声で言った。
「お母さん、きっと君がマウンドで笑ってる姿が見たいんだよ。お金とか、そういう数字の話じゃなくてさ」
「……だといいけどな」
俺は少し照れくさくなって、視線を床に落とした。
◇◇◇
それは、あまりに唐突な出来事だった。
昼休みが終わりに近づいた頃。教室の端で、クラスメイトの一人が「あれ、財布がない」と小さく声を上げた。
最初は、よくある日常の一コマに過ぎなかった。周りの友人たちも「ちゃんと探せよ」「カバンの奥に突っ込んだだけだろ」と、どこか他人事で、茶化すような空気さえあった。
しかし、数分が経過しても財布は見つからない。次第に空気は重くなり、友人たちも焦りを含んだ顔で周りを探し始めた。
「確実にここに、このカバンにしまっていたはずなんだ。……誰かに盗られたのかも」
本人が震える声でそう口にすると、教室の温度が一段下がったような気がした。周りは「そんなわけないだろ」と否定しつつも、隅々まで探しても見つからない状況に、最悪の可能性を否定しきれないようだった。
そこへ、チャイムと共に授業を始めようとする教師がやってきた。教壇に立った先生は、彼らの雰囲気に気づき、事情を聞く。そして、クラス全員に告げた。
「全員、一度席について協力してくれ。身の回りに彼の財布がないか確認するんだ」
俺は、どこか冷めた目をした傍観者だった。
大変そうだな……。誰かが間違えて持って行っただけならいいけど。
そんな他人事のような感想を抱きながら、形ばかりに自分の周りを確認する。俺の周りにあるわけがない。そんな確信に近い思い込みを抱えたまま、何気なく机の奥の方へ手を伸ばす。
指先に、妙な感触が当たった。教科書やノートとは違う、革の厚みと、中身の詰まった異質な手触り。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。心臓がドクンと大きく跳ねるのを感じながら、俺はそれを引きずり出し、机の外へ手を抜いた。
俺の手のひらの上には、クラスメイトが血眼になって探していた「その財布」が、静かに鎮座していた。
瞬間、教室中の視線が俺の右手に集まった。
「……あ」
掠れた吐息が漏れる。説明しようと口を開きかけたその時、教壇からの冷ややかな声がそれを遮った。
「再名生。……それは、どういうことだ」
先生の問いかけには、明らかな困惑と、それ以上に深い疑念が混じっていた。
無実だ。俺がやったんじゃない。誰かが勝手に俺の机に入れたんだ。頭の中ではそう叫んでいるのに、いざ言葉にしようとすると、喉の奥が引き攣ってうまく音にならない。
「……俺は、やっていない! 何も、知らないんだ!」
必死に絞り出した声は、情けないほどに震えていた。 やましいことなんて何一つないはずなのに、周囲から向けられる「犯人を見る目」に曝され、自然体でいることすら許されない。この震えが、周囲には盗んだことがバレたことによる動揺として映ってしまうかもしれない。その恐怖が、さらに俺を追い詰めていく。
深呼吸をして落ち着こうと足掻く。ただ、上手く空気を取り込むことができない。そんな苦しみに喘いでいた時──
「再名生くんはやってないですよ! 彼がそんなことするわけありません!」
凛とした声が教室に響いた。視線を向けると、阿久戸がまっすぐ先生を見据えて立ち上がっていた。
「そうだぜ! 直人に限ってそんなことするわけねえだろ!」
「直人が盗みなんて……そんなの、ありえないですよ!」
阿久戸に続くように、友人たちが次々と声を上げてくれる。
その様子に少しだけ呼吸しやすくなった。
先生は重苦しく息を吐き出し、口を開く。
「まあ、見つかったことだし。わざわざ犯人捜しをして、これ以上の大事にはしたくない。だから、この件は今のところ、クラスの中だけに留めておこう。……だが、これは立派な犯罪行為だ。次にまた何か起きれば、他の教職員にも共有するし、警察の介入も検討せざるを得ない。そのことを、全員しっかり頭に入れておくように」
先生の視線が、やけに長く俺のほうに留まっていた気がした。
俺が盗んだわけじゃないのに…何でだよ。
そう心の中で毒づきながら、耐えきれずに目を逸らしてしまった。それが、さらに「後ろめたい者の仕草」として周囲に印象づけてしまったことに気づいたのは、目線を逸らしたすぐ後のことだった。
それから何事もなかったかのように授業が開始される。だが、俺の心臓は早鐘を打ったままで、授業の内容は一つも頭に入ってこなかった。
周囲からの視線はこれほどまでに強烈で、逃げ場のない恐怖を伴うものだとは。
俺はただ、あのグローブが入ったバッグを、机の下で強く握りしめることしかできなかった。




