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保健室登校が最高なワケ  作者: 車屋旗魚
再名生直人 編
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「このグローブ、だいぶボロボロになってきたな」


 部活終わり、道具を片付けながら独り言を呟く。部活終わり、誰もいなくなった部室で道具を片付けながら、俺は独り言を呟いた。擦れた革の表面、切れかけの紐。中学から使い込んできた相棒は、もう限界を迎えつつある。


 スポーツを続けるのは金がかかる。遠征費、部費、そして次々に消耗していく道具たち。金銭面だけでなく、弁当作りや洗濯、送迎など、親にかける負担は想像以上に大きい。


 野球への熱が、様々な要因によって少しずつ冷めてしまっているような、奇妙な虚無感が拭えずにいた。


 重い足取りで帰宅すると、リビングの明かりの下で家計簿をつける母の背中が見えた。


 電卓を叩く指が時折止まり、彼女は小さくため息をつく。その姿を見るたび、胸の奥を鋭い針で刺されたような痛みが走る。


「……母さん、ちょっといい?」


「あら、直人。お帰りなさい。どうかしたの?」


 母はいつものように笑顔で俺を迎えてくれる。その顔を直視できず、俯いたまま切り出した。


「部活、やめようかなって…思ってる」


「…どうしたの?」


 持っていたペンを置き、諭すような穏やかな眼差しで見つめてくる。


「……最近、あんまり楽しくないんだ」


 これは嘘じゃない。ただ、脳裏を真っ先に占拠したのは、家計への負担という現実的な問題だった。けれど、それを辞める決定打として口にすることだけは、何としても避けたかった。


 未成年の俺は、良くも悪くも親の庇護の下で生きている。もしここで「金がかかるから」と本音を漏らせば、母はきっと「息子に好きなことさえ続けさせてあげられないのか」と、自分を責めてしまうに違いない。それだけは、絶対にさせてはならないことだった。


 そもそも、この窮状を招いたのは俺の「正義感」だ。母が心を殺してまで、俺たちの将来のために父を泳がせていたというのに、それを台無しにした俺には、母に余計な気を使わせる資格なんてない。


 だから、あくまで自分勝手な、主体的な理由で辞めようとしていると思わせたかった。やる気がなくなった、飽きた。その方が、母も「本人の意思なら仕方ない」と割り切れるはずだ。そんな、歪んだ配慮を込めて言葉を重ねた。


「なんかさ、目標も見失っちゃったっていうか。毎日同じことの繰り返しで、もう十分かなって……」


 母はしばらく黙って俺を見ていたが、やがて小さく息を吐くと、机の上の家計簿をそっと閉じた。


「楽しくないか……。それはあんたが、何をもって『楽しい』とするかによるんじゃないの?」


 母の落ち着いた声が、静かなリビングに響く。


「簡単に手に入るものばかりで楽しさを感じるには、限界があると思うの。いつか慣れてしまうものだし、人って欲張りな性質があるじゃない?」


 母は椅子を直し、俺と正面から向き合った。


「辛いことや苦しいことを味わって、それを必死で超えた先に成功があるから、楽しいし、嬉しいんでしょ。結局、人生の面白さって、その苦しさと嬉しさの『振れ幅』にあると思うのよ」


「……母さん」


「不快なことから逃げるのを、人生の目的にしないで。あなたには、進み続けることを人生の目的にしてほしいの。まあ、無理をする必要はないけどね」


 すべてを見透かされているような気がした。俺が金のことを隠そうとして、不自然な言い訳を並べていることも。それでも母は、俺の言い分を否定するのではなく、もっと深い場所にある「生き方」の話として返してくれた。


「……でも、金は? 俺がこうして野球を続けてるだけで、母さんにずっと無理させてるだろ。俺、バイトでもして、少しでも生活を楽にしたいんだよ」


 結局、堪えきれずに本音が漏れた。すると母は、困ったように、しかし力強く笑った。


「お金のことなら、心配しないで。……それでも、どうしても私に何か返したいって思うなら。そうね、プロになって大金稼いで、私をびっくりさせるくらいしてみなさいよ」


 最後はいつもの冗談めかした口調。だけど、その瞳には「あんたは自分の道を、迷わずに行きなさい」という、強い祈りが宿っていた。


 失いかけていた熱が、迷いを焼き払うほどの温度となって再び宿り始める。


「……わかった。……サンキュ、母さん」


 自分の部屋に向かうおう歩く。その足取りは帰宅した時よりもずっと軽やかだった。









「直人、ちょっと待って」


 ふいに背後から呼び止められた。


「なに?」


「少しだけ待ってなさい」


 そして、リビングから出ていった母親。どうしたのだろうと疑問に思っていると、すぐに戻ってきた。


 その手には見慣れない箱。


「はい、これ。もうすぐ誕生日でしょ?少し早いけどプレゼント」


「ここで、開けてもいい?」


「いいよ」


「……っ、これ……」


 箱に収まっていたのは、茶色のグローブだった。


「この前、あんたが欲しそうにしてたグローブ買っておいたのよ。本当はちゃんと誕生日に渡すつもりだったけど、早めの方が馴染んでいいでしょ」


 今の家計の状況では、かなり高価な買い物のはずだ。


 そこまでしなくていい。もっと安いものだってあったはずだろ。無駄遣いじゃないのか。


 そんな否定的な言葉が次々と脳裏をかすめる。


 しかし、それ以上に、純粋な嬉しさが溢れて止まらなかった。母が俺のために注いでくれた情熱と愛情が、理屈じみた遠慮を温かく飲み込んでいってしまったのだ。


 これでは、文句の一つもつけられないではないか。母さんの献身に甘え続ける、情けない息子のままになってしまうではないか。


「……ありがとう、母さん。一生、大切にするよ」


「一生は言いすぎよ。ボロボロになるまで使い倒しなさいな」


 そう言って柔らかく笑う母を見て、覚悟が決まった。


 このグローブを嵌めてマウンドに立ち、母さんが心の底から笑ってくれるような結果を出す。それが俺の新たな、そして確かな目標となった。


◇◇◇


翌朝。


「母さん、おはよ」


キッチンから漂う味噌汁の匂いと共に、俺は一階へ下りた。


「おはよう」


「今日の練習から、慣らし程度だけどさ。あのグローブ使ってくるよ」


「そう。頑張りなさいよ」


「ところでなんだけさ……」


「なあに?」


「もしかして、このグローブもう買っちゃってたから、俺が部活辞めるの必死に止めようとした?」


 もちろん、冗談のつもりだった。あんなに熱っぽく「振れ幅」だの「人生の目的」だの、哲学的に語っていた母だ。そんな世俗的な理由なわけがない。……そう思っていたのだが。


「ま、ま、まさかぁ~、そんなわけないじゃない!」


 母さんは持っていたお玉をカチャカチャと鳴らし、あからさまに視線を逸らした。


「……思いっきり目が泳いでるんだけど。一度、俺の目を見て話してくれない?」


「そんなことより朝食よ! ほら、早く食べるわよ!」


 わざとらしく挙動不審に振る舞うその姿に、思わず苦笑が漏れる。おそらく冗談の延長なのだろう。だが、裏の裏をかくというか、あえて道化を演じることで、その奥にある本心を隠しているような可能性もある…。


 まあ、そんなことはどうでもいいか。俺が嬉しかったかどうかが大事なのだ。そして、その答えは今さら問い直す必要もない。


 どちらにせよ、母さんとの深い愛情とちょっぴりの計算高さ。その両方が詰まったグローブだとするならば、どんなものよりも頼もしく思えた。


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