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まだ一限目が始まらない朝の時間。
以前までは、始業ベルが鳴るまで机に突っ伏して寝ているか、スマホを眺めて時間を潰しているだけだった。しかし現在、俺は勉強している。隣には阿久戸正。そして、周りには複数の友人がいる。
ペン先がノートを走る音と、阿久戸の穏やかな解説の声。そんな静かな熱気を帯びた朝の
ひとときを眺めながら、俺はふと、数日前のことを思い出していた。
「お前、朝から勉強してんのな」
学校に着いた俺は、阿久戸の席に近づき、話しかけていた。邪魔をする気はなかったので、軽く挨拶を済ませてその場を去ろうとしたのだが──
「再名生くんも一緒にやろうよ」
「えー、めんどくさいな」
「ほんの10分間くらいだけだし、分からないところがあったら僕が教えてあげられるよ」
こうして、朝の時間に少しだけ勉強するようになった。
そして翌日、勉強する俺達の様子を見て、茶髪でいつも騒がしい俺の友人が声をかけてきた。
「直人、朝から勉強してんのか。急にどうしちゃったんだよ」
「ちょっとした暇つぶしだよ。自分のためにもなるしな」
「ふ~ん。てか、直人と阿久戸って仲良かったんだな」
「最近仲良くなったんだよ。コイツすげぇ頭いいんだぜ。さっきもこの問題の解き方教えてもらったところだ」
俺が言うと、友人は「マジか」と驚いたように阿久戸を見た。
「……なあ、阿久戸。そこ、俺にも教えてくんねーかな」
「いいよ!」
阿久戸は快く引き受けた。
それをきっかけに、遠巻きに見ていたクラスの連中が、一人、また一人と近寄ってくるようになる。気がつけば、阿久戸の周りには小さな「勉強会」の輪ができていた。
阿久戸の説明は、驚くほど簡潔で分かりやすい。難解な問題を、日常的な例え話や、俺たちが興味を持ちそうな話題に置き換えて、噛み砕いて説明してくれる。
「……あー、なるほど! 先生の説明より百倍分かりやすいわ。阿久戸、お前天才かよ」
「そんなことないよ。みんなが一生懸命聞いてくれるからだよ」
阿久戸は照れくさそうに眼鏡のブリッジを押し上げる。今や彼は、クラスのあちこちから頼られ、名前を呼ばれる存在であった。
「阿久戸くん、こっちの英語も見てくれない?」
「阿久戸、サンキューな。おかげで今日の小テスト、乗り切れそうだわ」
そんな光景を眺めながら、俺は誇らしいような、不思議な充足感に包まれていた。
「……再名生くん、どうかした?」
不意に、阿久戸が輪の中から俺にだけ視線を向けた。
「いや、なんでもねーよ。……お前、すっかり人気者だな」
「再名生くんのおかげだよ」
その謙虚すぎる言葉に、俺は少しだけむず痒いような感覚を覚えた。
◇◇◇
放課後のグラウンド。オレンジ色に染まり始めた空の下で、鋭い金属音と砂埃が舞っていた。
俺達の学校である陽桜高校は、県大会では必ずと言っていいほどベスト8に食い込む。うちの県は、全国レベルの強豪がひしめく激戦区ではないにしろ、それなりの実力とプライドを持っているチームだ。だが、今大会は信じられないような早い段階で敗退した。
以来、グラウンドを支配しているのは、重苦しい沈黙とピリついた空気だ。特に監督は、あの日からずっと、目に見えるほどの苛立ちを全身から放っている。
「林道! そんなんだから打たれるんだ!! もっとしっかりやれ!!」
「はい!!」
ノック中に怒鳴り声を浴びせられているのは、林道仁志先輩だ。この前の試合で打ち込まれ、直接的な敗北の原因となってしまった彼だが、これからのチームを支えていくのは間違いなくあの人だろう。3年生が引退し、新体制となった今、次のエースに選ばれるだけの実力と実績、そして周囲からの信頼を兼ね備えている。
最近の林道先輩には、どこか鬼気迫るものがあった。元々は爽やかな性格で、勉強も運動もスマートにこなすイメージの強い人だったが、あの敗戦が相当に悔しかったのだろう。今の先輩には、かつての余裕など微塵も感じられない。泥臭く地面を這い、一球一球に執念を燃やしている。
そんな先輩の背中を、俺は外野の端から複雑な思いで見つめていた。
「直人! ちょっと来い」
不意に監督の野太い声が響き、俺は肩を跳ねさせた。砂を蹴って駆け寄ると、監督は腕を組み、不機嫌そうにマウンドを睨みつけたまま口を開いた。
「お前には期待しているんだぞ。これからは林道と共に、二枚看板として投手陣を引っ張っていってもらわなきゃ困る」
「……はい、頑張ります」
反射的にそう答えたが、監督の眉間の皺はさらに深まった。
「『頑張る』じゃない、やるんだ。全く……お前の野球センスは認めている。だが、どうも貪欲さというか、ハングリー精神が足りない気がするぞ」
「……そうでしょうか」
「ああ。楽しむのも大切だが、多少のストレスを与えないと人間は成長しない。脳みそだって筋肉だって、負荷がかかることで初めて成長するんだ。今のままじゃ、ただやっているだけ』に過ぎない残りの2年間を棒に振ることになるぞ」
「……はい」
絞り出すような返事しかできなかった。
監督の求める成長への渇望――それが今の俺には圧倒的に欠けている。その自覚だけは、嫌というほどあった。




