28
阿久戸と過ごす日々は、急速に俺の日常へと溶け込んでいった。
「なあ、阿久戸。これ、マジで意味わかんねーんだけど」
西日が長く差し込む窓際の席。俺は開いたままの数学の教科書を指先で弾いた。
「うーんとね。ここは……」
阿久戸は隣に椅子を引き寄せると、俺のノートの余白にさらさらと計算式を書き込んでいく。
「この公式、一見複雑だけど、実は基本の組み合わせなんだ。一つひとつの工程を整理していけば、最後にはちゃんと答えにたどり着くよ」
「なるほど……でも、理解したとして、これを使いこなせるようにするのは難しいな」
「再名生くんは飲み込みが早いから、コツを掴めばすぐだよ」
阿久戸の教え方は丁寧で、押し付けがましさが一切なかった。そして、人をその気にさせるのも上手い。
一区切りついたところで、彼は鞄の奥から個包装のチョコレートを取り出した。
「これ、近所のスーパーで安売りしてたんだけど、意外と美味しいんだ。食べてみてよ」
そうして貰ったチョコを口に入れる。
「たしかに、うまいな」
「だよね!」
あまりのテンションの高さに若干気圧される。思えば出会った日も、コイツは鍵屋に胸ぐらを掴まれた後にも関わらず案外ケロッとしていたし、基本的に元気なやつなのかもしれない。
「そういえば阿久戸、あれから鍵屋に絡まれたりしてないか?」
「うん。再名生くんがいてくれるから、大丈夫」
「そうか、それは良かったな」
「あの時は助けてくれて本当にありがとうね。……僕、ずっと怖かったんだ。学校に来るのが。でも今は、こうして再名生くんと勉強するのが、一日の楽しみなんだよ」
阿久戸は眼鏡の奥の瞳を細めて、嬉しそうに笑った。その真っ直ぐな信頼に、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「……お前、お人好しすぎるだろ。俺だって、別に聖人君子ってわけじゃねーのに」
「ううん、再名生くんは優しいよ。あの日、誰も見て見ぬふりをしたのに、君だけが来てくれた。それだけで、僕にとっては十分なんだ」
阿久戸は俺の手に、そっと手を重ねてきた。その感触は驚くほど冷たいけれど、今の俺には心地良いものだった。
でも、ベタベタ触ってきて気持ち悪いなと密かに思った。
図書室の閉館を告げるチャイムが鳴り、俺たちは連れ立って校門を出る。 帰り道、阿久戸は最近読んでいるミステリー小説や、昨日見た深夜番組のくだらない内容を、楽しそうに話し続けた。
「直人くん、明日は購買の新作パン、一緒に食べない? 競争率高いみたいだけど、僕、早めに行ってみるよ」
「……ああ。行くか」
「本当? やった、約束だよ」
阿久戸が子供のように無邪気に笑う。
夕闇が迫る中、街灯に照らされた俺たちの影が重なり合い、長く伸びていった。
◇◇◇
翌日、阿久戸は本当に、戦場のような昼休みの購買から新作の「厚切りカツサンド」を二つも勝ち取ってきた。
「……お前、その細い体でよく戦ったな。どこにそんな根性あったんだよ」
「あはは、必死だったからね。再名生くんとの約束、破りたくなかったし」
渡り廊下の突き当たり、冷房の効きが甘い空き教室では、唸りを上げる古い扇風機がぬるい風をかき回している。
阿久戸は汗で額に張り付いた髪を気にすることもなく、嬉しそうにカツサンドを頬張った。俺も隣で口に放り込む。ソースの濃い味が、あの日から鈍くなっていた味覚を刺激した。
「僕、飲み物買ってくるよ。暑いし、味も濃いから喉乾いちゃって。再名生くんのも買ってこようか?」
「じゃあ、頼むわ。悪いな」
「うん、待ってて!」
駆けていく背中を見送りながら、少しだけ胸がざわつく。あいつは、他人に何かを与えることに躊躇がなさすぎる。それに、これでは俺がパシリに使っているように見えてしまう気がする。
そんなことを考えていると、阿久戸はすぐに戻ってきた。
「はいこれ、再名生くんの分」
差し出されたのは、麦茶のペットボトル。掌に伝わる冷たさが、火照った体に心地よかった。
「いくらだった?」
財布を取り出そうとする俺を、阿久戸は遮るように首を振る。
「いいよ、これくらい。僕に奢らせて」
「いや、勉強も見てもらってるし、お前には頼りっぱなしだ。受け取れよ」
「……僕がやりたくてやってることだから、気にしないでよ。あの日助けてくれたこともあるし、いつも僕と一緒にいてくれるし、お礼がしたいんだよ」
無理やり小銭を握らせようとしても、彼は器用にすり抜けて、困ったように笑うだけだった。
阿久戸には妙に頑固なところがある。結局、こちらが根負けするまでこの押し問答は終わらないのだ。
「……わかったよ。ありがたく頂くわ」
降参の意を込めて息を吐くと、阿久戸はパッと表情を明るくした。
ペットボトルのキャップを捻り、麦茶を喉に流し込んでいく。それを見た阿久戸も真似るように口をつけたが、その飲みっぷりはどこまでも慎重で、ちまちまとした音を立てていた。
「少しずつしか飲まないんだな」
「冷たいものを一気に飲むと、すぐお腹壊しちゃうんだよ」
阿久戸は照れくさそうに笑いながら、結露したボトルを両手で包み込んだ。
「そういえば、再名生くんは夏休みの予定とかある?」
「部活かな。もちろん毎日ってわけじゃないだろうけど」
「そっか。……西遊さんとは遊びに行かないの?」
唐突に投げられた名前に、俺は麦茶を吹きそうになって激しくむせた。
「俺と真里奈が付き合ってること知ってんのかよ」
「うん、噂になってたから。西遊さん、すごく可愛いよね」
「なんだ?取るつもりか?」
「あははは」
「そこはちゃんと否定しろよ。怖いわ」
コホンと咳払いをして、こいつにも同じ質問を投げかける。
「阿久戸は何か予定あるのか?」
「僕はね、漫才を見に行くよ」
意外な答えだった。阿久戸と漫才、という組み合わせがどうにも結びつかない。
「お笑い、好きなのか?」
「うん。……あ、でも、単純に見に行きたいわけじゃないんだ。こう、誰かが舞台ですべる瞬間の、あのなんとも言えない空気を見に行くのが好きなんだ」
「…趣味悪いな」
「そうかな?面白いと思うけど」
こいつの趣味は時々おかしいと感じることがある。この前も、意味の分からないこと言ってたし。
「…まあ、そんなことはさておき、そろそろ教室戻るか」
「そうだね。授業始まっちゃう」
雑談を切り上げた俺たちは、並んで教室を目指し、歩き出した。




