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夏の甲子園予選。県内でたった一枚の甲子園出場という切符。それを手にするため、競い合う高校球児達。
「負けちまったか」
誰の呟きだったのか、あるいは自分の独り言だったのか。 電光掲示板に刻まれたスコアは、2対1。
うちのエースは無失点で繋いだものの、変わった林道先輩が打たれて2失点。そのまま打線は反撃の糸口を掴むことができず、敗北した。
整列し、相手校の校歌を聞く。周囲の部員たちは、堰を切ったように泣き崩れていた。先輩たちの嗚咽が、熱を帯びたグラウンドに響いている。
けれど、俺の目からは一滴の涙も出なかった。
悔しくないわけじゃない。だが、胸の奥には驚くほど冷めた自分がいた。
自分が投げていなかったから、どこか他人事のように感じているのだろうか。それとも、一年生である俺には「まだ来年以降がある」という余裕のせいか。
あるいは、もっと別の何かか。
◇◇◇
「次の授業だりぃ~」
茶髪の男子生徒が、大きなあくびをしながらぼやく。
「お前それ、一限目からずっと言ってるじゃん」
それに対し、背の高い男子生徒があきれたように笑いながら、ノートを丸めて茶髪の頭を軽く叩く。
休み時間の教室は、どこにでもあるような、退屈で幸福な空気に包まれていた。あちこちでとりとめのない会話が展開され、無邪気な笑い声が重なり合う。俺もその輪の一つに加わり、適当に言葉を交わしていた。
だが、いつもなら心地よかったはずのその賑やかさが、今はひどく億劫でならない。 友人たちの冗談に合わせる顔の筋肉が強張り、形だけの相槌を打つのさえ、肺の奥が詰まるような息苦しさを感じていた。自分だけが、分厚い膜の向こう側に隔離されているような疎外感。
「……わり、ちょっとトイレ行ってくるわ」
盛り上がる会話の腰を折らないよう、自然なトーンで告げて席を立つ。 背後で続く「早く戻ってこいよ」という声を無視するように、俺は教室を抜け出した。
廊下に出て、当てもなく歩き出そうとした時だ。
「あの……直人。……大丈夫?」
振り返ると、真里菜が心配そうにこちらを見つめていた。
「何が?ただトイレ行くだけだぞ」
「……そう。なら、いいんだけど」
彼女は何かを言いかけたが、俺の冷淡な眼差しに怯んだように、力なく唇を閉ざした。
「用がないなら、もう行くからな」
突き放すような言葉になってしまったという自覚はあった。反省の念がなかったわけではない。しかし、そのまま俺は彼女に背を向け、一階へと続く階段を下りた。
あてもなく歩き、校舎の裏手に差し掛かると、鈍い音と低い罵声が聞こえてきた。建物の陰、普段は誰も寄り付かないような場所からだ。
「おい、いいかげんにしろよ。……舐めてんのか?」
声のする方へ向かうと、派手な金髪にピアスをつけた男が、小柄な男子生徒の胸ぐらを掴み、壁に押しつけていた。 男の顔には見覚えがない。他クラスの、いわゆる不良グループの一人だろう。
本来なら、関わるべきではない。今の俺に、誰かを助けるような熱量なんて残っていないはずだ。だが、あの日からずっと胸の奥に渦巻いているドロドロとした感情を、何かにぶつけたいという衝動が勝った。
「やめろよ」
自分の声が、驚くほど低く響いた。
金髪の男はゆっくりと首を回し、俺の顔を見ると、忌々しげに鼻で笑った。
「……あ? なんだお前、ヒーローごっこか?」 「いいから、そいつを放せ」
一歩でも踏み込めば殴り合いになる、そんな予感があった。
男の獣のように鋭い瞳が俺をじっと捉えて離さない。俺もその視線を真っ向から受け止める。失うものなんて何もないという、投げやりな勇気が俺を支えていた。
やがて、男はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「まあいいや。……おい、次はねーぞ」
掴んでいた胸ぐらを乱暴に突き放し、男は肩を揺らしながら去っていった。
「ありがとう。助かったよ、再名生くん」
再名生という姓。まだ耳馴染みのないその響きに、反応が遅れてしまう。
「……ああ、えっと、君は」
「僕は阿久戸。阿久戸正だよ。一応同じクラスなんだけど……」
阿久戸は自嘲気味に笑いながら、震える手でメガネの位置を直した。
「ごめん。いや、同じクラスなのは分かっていたんだ。でも、まだクラス全員の名前覚えてなくてさ。阿久戸くん、怪我はない?」
「うん、大丈夫。再生名くんが来てくれなかったら、今頃どうなってたか……。本当に、ありがとう」
阿久戸は何度も頭を下げた。
ただ間に入っただけで、特別なことをしたわけじゃない。だから、そんなにも感謝されると若干申し訳なさが勝ってしまう。そう考えながらも、心はどこか充足感に満たされていく。
「……また、あいつ因縁つけられた時は言ってくれ。味方になってやる」
自分らしくないと思った。まともに話すのが今日初めての奴にそこまでしてやる義理はない。しかし、俺の口から勝手にそんな言葉が零れてしまったのだ。それはおそらく、自分の行いで救われる人がいるということを実感したいからだろう。
「ありがとう!」
阿久戸の瞳が眼鏡の奥でパッと明るく輝いた。
これ以降、俺と阿久戸正は頻繁に行動を共にするようになっていった。




