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「父さん、話がある」
ぼんやりとテレビを見る父に向かって、切り出す。
この場に母は居ない。風呂に入っているのか、寝室に行ったのか、何をしているのかは分からない。だが、とにかく父親と二人きりのタイミングを見計らって口を開いた。
「なんだ、直人?改まって……」
「……父さんが女の人と歩いているのを見た」
端的に告げる。すると、父の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「……そうか」
力なく視線を落とす様子を見て、少し拍子抜けした。
俺が言ったのは、ただ「女の人と歩いているのを見た」ということだけである。仕事の知人だとか、道を聞かれただけだとか、いくらでも言い訳はできるはずだ。何より、俺は父さんが言い訳をするだろうと思っていた。人間は弱いものだ。裁きが目の前に迫っている時、わずかでも逃れる可能性があるのなら、見苦しくあがくのが普通であろう。
それに、俺はわざと言い逃れができるように罠を張ったのだ。そんなことをしてしまう自分が少し嫌になる。
だが、もし父さんがここで嘘を重ねたなら、俺は心置きなく親父を「救いようのない悪」だと断定して、全力で嫌いになれる。正義を振りかざす自分を正当化できる。しかし──
「…すまない」
返ってきたのは、あまりにも脆い、消え入りそうな謝罪だった。
きっと父さんは、心のどこかでやってはいけないことだと分かっていたのだろう。しかし、それを自分の理性でコントロールすることができなかった。だが、息子に不倫を指摘されたことで、目を背け続けてきた罪の意識が耐えきれないほどに膨れ上がった――きっとそんなところだ。
そのように、冷静に父の心理をなぞり、理解しようと努めたところで、苛立ちは収まらなかった。
「……なんでだよ。そんなあっさり認めるなら、不倫なんてしてんじゃねーよ!」
激昂する俺に対し、父さんはただ項垂れている。その無防備な沈黙が、逆撫でされた神経をさらに激しく掻き乱す。
「なんで謝るんだよ……。申し訳なさそうにすんじゃねーよ!なんだよその顔、被害者ズラすんなよ!みっともなく言い訳してみろよ!!」
嘘をついてほしかった。俺を丸め込もうとしてほしかった。そうしてくれたら、もっと正しく、素直に怒れたのに。
「…っ!何にも言わねーのかよ……だったら、さっさと消えてくれ!!」
これじゃあ、俺だけが感情的になって、一人で騒いでいるバカみたいじゃないか。
◇◇◇
「直人の苗字、再名生になってんじゃん!」
「親が離婚でもしたんか?」
数日後、学校に来た俺は友人達と話していた。
「ああ、両親が離婚しちまった」
正直、触れてほしくない話題である。しかし、あまり深入りされるのは嫌だが、名字が変わって完全にスルーというのも少し違和感がある。気を遣われすぎるのも居心地が悪いものだ。それならば、イジって貰った方が気持ち的に楽かもしれない。
俺は上手く笑えているだろうか。
あの日……父さんを問い詰めた日のことだ。父は自ら母に不倫していたことを説明し、離婚する運びとなった。当然俺もその場におり、一切の弁明もせず母に全てを伝える姿に驚愕した。父が話す間、母は俺の様子を伺っていた。息子が傷ついていないか、気にしてくれたのだろう。
なかなかに大変なことが続いているが、今日は母の誕生日である。そして、今日は部活が
休みの日でもあった。だから、サプライズとしてケーキを買って帰ろうと思っている。
こんな時だからこそ、暗い顔をしていちゃいけない。これからは俺が母さんを支えていくんだ。父さんのいなくなった穴を埋めるなんて大それたことは言えない。だけど、せめて今日くらいは、新しい門出を祝うような明るい日にしたかった。
駅前のケーキ屋で、奮発して華やかなホールケーキを注文した。 「メッセージプレートはどうなさいますか?」 という店員の問いに、言葉が詰まる。『お誕生日おめでとう』だけでいいはずなのに、なぜかそれ以上の決意を込めたくなってしまったのだ。だが結局、無難な言葉を選んで箱を受け取った。
ずっしりと重いその箱は、今の俺が持てる精一杯の「覚悟」の塊のように思えた。真里菜に言われた通り、俺は自分で道を選んだ。父さんを追い出し、母さんの隣に立つことを決めた。この選択に、一点の曇りもない。
鼻歌まじりとはいかないが、少しだけ早足で帰路につく。
玄関のドアを開ける時は、ゆっくりと、母に気付かれないように動く。驚かせたいからだ。
俺はわずかに物音を鳴らしまうが、幸い母は誰かと電話しているようで、バレることはなかった。
安堵の息を漏らし、リビングの扉の前で足を止めた。この扉を開けて、「誕生日おめでとう」と言えば、母さんはきっと驚いて、喜んでくれるはずだ。その笑顔を見ることができれば、この数日間の重苦しい空気も、少しは晴れるような気がしていた。
サプライズを成功させるために、俺は母さんが電話を切るタイミングを待つことにした。
しかし、扉の隙間から漏れ聞こえてきた母さんの「声」は、俺が今まで一度も聞いたことのない、乾いた響きを帯びていた。
「……ええ、協力していただいたのに申し訳ありませんでした。……はい。あの子が、主人を問い詰めてしまったんです。ええ、想定外でした。まさか、あの子まで気がついていたとは……」
ドクン、と心臓が嫌な跳ね方をした。俺が一体何をしたっていうんだ。
「主人も、実の息子に正面から指摘されて……観念したようです。ですから、これ以上の証拠は集まらない状況になってしまいまして」
電話口からの声は聞こえない。だが、母さんの言葉だけで、今の状況は推測できてしまった。
母さんは、誰かに依頼していたのだ。父さんの不倫の証拠を集めることを…。
おそらく相手は、探偵か弁護士か何かだろう。
「息子のあんな顔を見たら、もう夫と早々に離婚したほうがいいかと思いまして。……私にとっては、息子が一番大切ですから」
――俺は、余計なことをしたんだ。
母さんは、父さんを泳がせていたのだ。決定的な証拠を掴み、有利な条件を揃えて、俺たちのこれからの生活を確かなものにするために。泥を啜るような思いで、静かに牙を研いでいた。 それなのに、何も知らない俺が正義を気取って、その盤面を台無しにした。
俺が父さんを問い詰めたせいで、父さんの良心を中途半端に呼び起こしてしまった。その結果、決定的な証拠を掴む前に、父さんは潔い父親の皮を被って去るチャンスを得てしまったのだ。
俺のせいで。
手に持ったケーキの箱が、急激に重くなる。 さっきまで誇らしかった自分の覚悟が、あまりにも幼く、独りよがりなエゴに思えて吐き気がした。
「あ、誰か来たみたい。……ええ、また。失礼します」
電話が切れる音がした。 俺は逃げ出したかったけれど、足が床に縫い付けられたように動かない。
「……直人? 帰ってたの?」
リビングの扉が開く。そこには母さんが、慈愛に満ちた笑顔で立っていた。
「まあ……それ、私のために? ありがとう、直人。嬉しいわ」
弾んだ声で母さんは言い、キッチンから皿とフォークを持ってきた。
「さあ、食べましょうか。せっかく直人が買ってきてくれたんだもの」
母さんは丁寧にケーキを切り分け、俺の前に差し出した。
一口、フォークを口に運ぶ。ケーキの味はしなかった。 甘いはずの生クリームは粘土のように喉にまとわりつき、まぶされた砂糖は、ただの不快な砂利としか思えない。
「美味しいわね。ねえ、直人?」
「……うん。美味しいよ」
嘘をついた。
嘘をついた父さんを糾弾した俺が、今度は母さんに嘘をついている。
母さんの笑顔をこれ以上壊さないために。
自分がしでかした取り返しのつかない過ちを、この甘いはずの塊と一緒に飲み込んで、なかったことにするために。




