25
「おはよう、直人」
「おはよう母さん……父さんも…おはよう」
「ああ、おはよう」
昨夜のことを母に告げることはしなかった。父に対して問い詰めることもしなかった。だから、普段通りの朝だ。
リビングのテーブルに着いて、トーストをかじる俺。目の前には新聞を広げながらコーヒーを飲む父親がいて、キッチンを見れば家事をする母親がいる。
言うべきだろうか。言ってしまえば、確実に今が壊れる。俺が言わなければ、この光景は守られる。
だが、そんなものは嘘だ。この家族は嘘で守られているに過ぎない。
それは正しいことなのか。いや、正しいわけがないだろう。
しかし、正しさは人を幸せにするのだろうか。たとえ、偽りだったとしても幸せに生きれるのならば、それで良いのではないか。
でも、だったらなぜ、俺の心は晴れないのだろう。
嘘をつくことに後ろめたい気持ちを持っているからじゃないのか。
その後ろめたい気持ちに蓋をして、果たして幸せになれるのか。
「…直人………直人!なにボーっとしてるのよ。早くしないと学校遅れるわよ」
母の言葉により、思考の海から浮上する。
「う、うん……行ってきます」
結局、真実を告げることなく家を後にした。
◇◇◇
「どうしたの直人? 浮かない顔してるわよ」
教室の喧騒の中、俺の机に手をかけ、顎を乗せ、顔を覗き込んできたのは西遊真里菜だった。
教科書を机の中に押し込みながら、視線を逸らす。
「……何でもない」
「そんな顔で言われても説得力ないわよ。眉間にシワ寄ってる」
真里菜は人差し指で俺の眉間を小突く。彼女なりの気遣いなのだろうが、今の俺にはそれを素直に受け取る余裕がなかった。
「言いたくないんだ」
少し突き放すような声が出てしまった。真里菜は一瞬、意外そうに目を丸くしたが、すぐに寂しげな苦笑いを浮かべて肩をすくめる。
「……そう。でも、何かあったら言ってよね。私は一応、アンタの……カ、カノジョなわけだし」
語尾を濁しながら、耳たぶを赤くする真里菜。その初々しい仕草に、胸の奥がチクリと痛む。
「……ありがとう」
「それで、今日は一緒に帰れるの?」
「今日は部活がある」
「何時まで? 校門の前で待ってるわよ」
「遅くなるから待たなくていい」
「私が待ちたいの! それとも何、私と一緒に帰るのが嫌なわけ?」
腰に手を当て、ぷいっと顔を背ける真里菜。彼女のこういう強引さは、嫌いじゃない。むしろ、今の俺にはこれくらいの強引さが救いだった。
「めっそうもございません。お供させていただきます」
「よろしい。じゃあ、また後でね」
満足げに頷いて自分の席に戻っていく彼女の背中を見送りながら、俺は小さく吐息を漏らした。
◇◇◇
練習を終え、日が落ちかけた校門付近。街灯の下でスマホを弄っていた真里菜は、俺の姿を見つけるとパッと顔を輝かせた。
「本当に待ってたんだな」
「私がそんなに薄情者に見える?」
「真里菜は意外と他人の目とか気にするタイプだからなぁ」
「まぁ、間違ってないわね……でも、そんなことより早く帰るわよ。……ほら、手、繋いであげよっか?」
ぶっきらぼうに差し出された左手。彼女の口調からは、「どうせ、あんたにはそんな度胸ないでしょ?」という、こちらを試すような、いたずら心に満ちた思惑が透けて見えた。俺をからかって、狼狽する姿を楽しもうとしているに違いない。
「そうするか」
俺は躊躇わず、その左手を右手で掴む。
「あっ……ほ、ホントに繋ぐんだ……えへへ、なんか照れる」
さっきまでの威勢はどこへやら。真里菜は俯いて俺の真横にピタリとくっつく。繋いだ手から伝わってくる感覚は、想像以上に生々しいものだった。
「真里菜の手って、ちゃんと女の子の手なんだな」
「私が男に見えるとでも言いたいの?」
少しばかり不満気に、しかしながら冗談めかして楽し気に発せられた言葉。
「そんな、そんな。とても可愛い女の子だと思っていますよ」
女王様のご機嫌を取るように言うと、繋いだ手にギュッと力を込めてきた。
「…………あっそ。直人の手こそ、ちゃんと男の手ね。大きくて、ゴツゴツしていて……それに温かくて」
「……なんか、エロいね」
「はっ倒すわよ」
実にくだらない会話だ。でも、このくだらなさが今の俺にとっては何よりも大切なものだった。重くのしかかっていた家庭の事情を、父のあの顔を、一瞬でも忘れさせてくれるから。
「ありがとうな、真里菜。一緒に帰ってくれて」
「……別に。私が、一緒に帰りたかっただけよ」
「それでも、ありがとう」
「あっそ……」
素っ気ない返事。けれど、その横顔には隠しきれない優しさがあった。
「……俺さ、どうすべきか迷ってることがあるんだ。どっちを選ぶのが正解なのか、どうしても分からなくて」
父の不倫を見なかったことにするべきか、それとも向き合うべきか。俺の問いに、真里菜は歩みを止めず、前を見据えたまま静かに口を開いた。
「どっちの道を選んだとしても、後で『あっちにしとけば良かったー』って思うものなんじゃない? 人間なんて、そんなもんよ」
「……そういうもんかな」
「そうよ。アンタがそれだけ悩んでも答えが出ないなら、それはもう、今のアンタにはどうしようもないことなのよ」
「それなら結局、俺はどうすればいいんだ……」
俺は縋るように、繋いだ彼女の手を握る力を強めた。
「胸を張れる選択をしなさい。そして、選んだ道を歩んでいく覚悟を決めなさい」
「…」
夕日に照らされた彼女が、いつもより大人びて見える。
「選んだ後に『間違ってたかな』なんて、うじうじ考えないこと。どんな結果になっても、自分が決めたことだって胸を張るのよ。……アンタなら、それができるでしょ?」
真里菜のその言葉が、俺の背中を強く、とても強く叩いた気がした。




