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逆光を背負った影がゆっくりと歩を進めてくる。コンビニの制服の上に、薄手のパーカーを羽織った、いつも気だるそうにバイトをするあの人。
「直人先輩……? なんで、ここに……」
私を押さえていた男たちは、苛立ちを見せながら視線を彼に向けた。
「なんだてめぇ。……あぁ、冴えないコンビニの店員かよ。道にでも迷ったか?」
直人先輩は男の声など聞こえていないかのように、地面に散らばる残骸を見ていた。はじけ飛んだボタン。ページが幾枚も引きちぎられ、泥にまみれたノート。そして、もはや判読できないほど細かく裂かれた、バイトの書類。
「……これ、お前らがやったのか」
低い声だった。季節は初夏だが、まだ春は終わっていなかったのだと気付かされる。いや、冬の気配さえ残っているかもしれない。
そう思わせるほどに、先輩から放たれる空気は冷たく、鋭かった。
「それがどうした。お前に何ができんだよ!!」
一人が鉄パイプを振り回しながら突っ込んでいく。けれど、先輩は避ける素振りさえ見せず、男の懐に踏み込むと、その顎を正確に拳で突き上げた。
脳を揺らされた男が、一言も発せずに崩れ落ちる。
「……っ、囲め! 数の差を分からせてやれ!」
リーダーの怒号と共に、十人近い男たちが一斉に牙を剥いた。どれだけ強くても、全方位からの暴力は防ぎきれないだろう。
男たちがニヤつきながら、獲物を追い詰めるように距離を縮めていく。
「ハッ、マヌケが。たった一人でこの数に勝てると思ってんのかよ!」
「一人で勝てるなんて、これっぽっちも思ってねぇよ。だから──」
鼓膜を引き裂くような爆音が鳴り響く。バイクが数台、裏口から乱入してきたのだ。 眩いハイビームが、勝ち誇っていた男たちの顔を白く塗り潰す。
「待たせたな、直人」
「遅いぞ、真」
バイクを降り、金髪を揺らして悠然と歩み寄ってきたのは、鍵屋真だった。その背後には、彼が連れてきたであろう屈強な男たちが、無言の威圧感を纏っている。
先ほどまで「数の差」を誇っていたリーダー格の男は、その圧倒的な「本物」の気配を前に、ただ立ち尽くしていた。
「掃除の時間だ。……一匹も残さず片付けろ」
その一言を合図に、彼が連れてきた男たちが一斉に動き出す。
阿鼻叫喚の図が広がる中、直人先輩は私の方へと近づいてきた。
「ここはあいつらに任せて帰ろう」
彼の優しい瞳に、優しい声。張りつめていた緊張の糸が切れる。
来て…くれたんだ。
視界が滲んで、立っている先輩の姿が、何度瞬きをしても歪んで見える。
「……なんで、ここが分かったんだよ。知らないはずだろ……こんな場所」
少し強がるように絞り出した声。しかし、それは自分でも驚くほど震えていた。余裕なんてどこにもなくて、ただ、目の前に彼がいてくれるという事実だけで、冷え切っていた体の中にじんわりと体温が戻ってくるような気がした。
「石宮先輩に教えてもらったんだよ。もっとも、あの人がなんでこの場所を知ってんのかは謎だけどな……それよりもこれ、羽織っとけ」
先輩はパーカーを脱ぎ、手渡してきた。袖を通すと私の体には少し大きくて、指先まで隠れてしまいそうになる。
「直人先輩、ちょっと汗臭い」
文句を言いながらも、私はパーカーの襟元を鼻まで引き上げた。 この匂いを嗅いでいると、安心する。
「うるせぇよ。ほら、いくぞ」
先輩が歩き出そうとする。けれど、私の足には全く力が入らなかった。
「……安心して力抜けた」
「まったく」
先輩は呆れたように肩をすくめると、私の前に背中を向け、その場に膝をついた。
「……ありがと」
消え入りそうな声で伝え、その背中にのろのろと体重を預けて腕を回した。
先輩がゆっくりと立ち上がり、歩を進める。
背後ではまだ鈍い音と悲鳴が響いていたけれど、私は先輩の首筋に顔を埋めるようにして、その温もりにだけしがみついた。
◇◇◇
工場の喧騒から遠ざかると、少し肌寒い夜風が吹き抜けていった。
背負った笠井の体は軽く、細い腕が俺の首に必死にしがみついている。
「直人先輩……私さ、昨日ちゃんと親と話した。それでバイトするの許してもらって、書類も揃えたんだ」
背後から自慢気で弾んだ声が聞こえた。俺は前を向いたまま、黙ってその言葉に耳を傾ける。
「今日だって、遅れずに学校行ったんだ。制服着るのとか久しぶりすぎてボタン留めるのに苦労したよ。教室は完全にアウェイって感じで辛かったけど、隣の席の子とは仲良くなった」
「……」
「その子がイイ奴でさ、休んでた分のノート見せてくれて、書き写させてもらったよ。それと、授業だな。正直、全然分からなかった。それでも必死にノート取って、くらいついてやった。偉いだろ」
「ああ、偉いよ。よく頑張ったな」
そう返すと、背中で笠井が「だろ?」と鼻を鳴らした。
その満足気な様子に、安心したのも束の間──彼女は嗚咽を漏らす。
「……っ、なのに、さ。せっかく書いたノートも書類も、あいつらに全部破られて……。今日、店に行くって約束……守りたかったのに。こんな、ボロボロの無様な格好で……っ」
彼女の涙が、熱を持って俺の首筋を濡らしていく。
「……結局、私、何にも……何にもできてねーじゃん……っ。あいつらの前で、震えてただけ。……言い返すことも、殴り返すことも……っ、何一つ、できなかった……!」
背中越しに、彼女が歯を食いしばる振動が伝わる。
「変わったつもりだった。……新しい自分として生きていくつもりだったし、生きていけると思ってた。……でも、結局すぐに元の自分に戻った。ただ一瞬、決意を固めて……いい気になってただけなんだ」
自分自身を呪うような、ひどく冷めた独白。
こういう時、なんて声をかけるのが正解なのだろうか。そもそも声をかけず、ただ聴いているだけの方がいいのだろうか。
分からない。
しかし、自分を呪うように『一瞬の決意』を否定する彼女に、どうしても伝えたいことがあった。
「……でもさ、その一瞬の決意がなきゃ、何も始まらないぞ」
たった一瞬でも決意を固めて、慣れ親しんだ場所から抜け出そうとするのが、どれほど恐ろしく、どれほどのエネルギーがいることか。 それを『いい気になっていただけ』なんて言葉で片付けさせてたまるか。
笠井が自分に下した残酷な判決に待ったをかけたくなったのだ。
その言葉に対して、何かを言い返す力はもう残っていないようだった。ただ、堰を切ったように、また激しい嗚咽が漏れ出す。
苦しそうな呼吸を繰り返し、細い腕が首にしがみついてくる。背中に預けられた震える重みからは、今日という一日を必死に戦い抜こうとした熱量が、肌を通して直接伝わってくるようだった。




