21
校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替える。下駄箱に記された自分の名前が、知らない誰かの名前のように見えた。
階段を一段登るごとに、空気の密度が上がっていく。
教室の扉を開けた瞬間、それまで響いていた話し声が、凪のように一瞬だけ止まった。
視線の矢が数本、無遠慮に突き刺さる。
すぐにまた話し声が再開されたが、そのボリュームはさっきよりも小さく、密やかになった気がした。
「……あ、来たんだ」
「久しぶりじゃね?」
そんな呟きが、耳の奥にこびりついた。教室の話し声や、廊下から聞こえる笑い声、椅子を引く音さえも、すべてが私を品定めし、嘲笑っているかのような幻聴に変わる。
私は俯いたまま、自分の席にカバンを置いた。
朝のホームルームが始まるまでの時間。それが永遠のように長く感じられる。
隣の席に女の子が座った。その子がカバンからノートや教科書、問題集を取り出すのが視界に入る。
そして彼女がノートを開いた。そこには整った文字でびっしりと書き込みがされている。私が学校を休んでいる間に、黒板に書かれたであろうもの。今はもう、あの黒板に何の文字も見えないけれど、確実に書かれ、消されていった文字の蓄積。それを見て、自分の体の中にあった焦燥感が一気に膨れ上がった。
ただ……だからこそ、私は進まなくてはならない。
「その、悪いんだけど……ノート、見せてくれないかな。勉強、だいぶ遅れてるから」
不意に話しかけられた彼女は、少し驚いたように、瞬きを繰り返した。けれど、すぐに「いいよ」と短く答えて、ノートを私の机の方へ差し出してくれた。
私はそれを手元に引き寄せ、必死に自分のノートへ書き写し始めた。一文字も、一記号も漏らさないように。ペン先を動かすことだけに集中していると、周囲の密やかな話し声が、少しずつ遠のいていくのが分かった。
しばらくして、横から感心したような声が漏れた。
「意外と、一生懸命やるんだね」
顔を上げると、彼女は口に出した通り、意外そうな表情で私を見ていた。
「……意外とって何だよ」
「あはは、ごめん」
私はペンを置き、少しだけ視線を逸らした。
「自分でも、似合わないってのは分かってる。でも、頑張ろうって思ったんだ。……色々あったから」
彼女は屈託なく笑う。
「……なんか笠井さん、雰囲気柔らかくなったね」
「そうか?」
「そうだよ。前よりとっても話しやすい」
私はなんと答えていいか分からず、ただ「……そう」とだけ返して、また手元のノートに目を落とした。
「他にも、なにか困ったことがあったら言ってね」
「……ありがとう」
私は、その感謝の一言に何重もの意味を込めた。
◇◇◇
放課後を告げるチャイムが、校内に響き渡った。
朝よりも少しだけ馴染んだ気がする半袖シャツの襟を整え、カバンを肩にかけ直す。中には、教科書やノートと一緒に、バイトの書類をまとめたクリアファイルが収まっている。
「……よし」
そう小さく呟いて教室を後にした。
一歩、一歩。
ローファーの地面を叩く音が、軽やかなリズムを刻む。
気付けば、かなりの距離を進んでいた。
次の角を曲がれば、あのコンビニが見えてる。
直人先輩はもう着いているだろうか。そう期待して私の足取りはさらに早まった。そして──
いた。
店先には見慣れた顔があった。もっとも望んだ人物のものではないのだが。
ガードレールに腰掛け、煙草の煙を吐き出している数人の影。かつて私が「居場所」だと自分に言い聞かせていた、濁った集団。
「よぉ、天。待ってたぜ」
一人がニヤリと下品な笑みを浮かべ、私の方へ歩み寄ってくる。私は、反射的に距離を取った。
「何の用だ」
「昨日は一方的に別れを告げて、去ってきやがって。そんなんが許される訳ねぇだろうが!」
男の怒号が、夕暮れの店先に響いた。周囲の通行人が一瞬足を止めるが、関わりを恐れるようにすぐに目を逸らして去っていく。
「……悪かったな。でも、お前らの元に戻る気はない」
相手の目を真っ直ぐに見据え、言い切る。そして、彼らの横を通り過ぎようと歩き出す。
「ところで……」
低く粘りつくような声が耳に届いた。
「あの冴えないコンビニ店員、今日はいないのか?」
「……っ!」
踏み出そうとした足が、地面に張り付いたように動かなくなる。
「……あの人に手を出すんじゃねーぞ」
振り返った私の声は、自分でも驚くほど低く、鋭かった。
「それはお前次第だ。ついて来い」
抵抗すれば、この悪意は直人先輩に向かう。
私はカバンを強く握りしめたまま、有無を言わさぬその背中に、付いていくしかなかった。
◇◇◇
着いたのは廃工場だった。
「こんな場所あったのか」
同じ集団に属していたとしても、自分の知らないたまり場もあったのかと少し驚く。驚くだけだ。疎外されていたことに、今更悲しくなったりはしない。
「ここは特別な場所なんだぜ」
集団の中の一人が、錆びついた柱を蹴りながら得意げに言った。
「何が特別だ。普通に不法侵入だろ」
そう吐き捨てた時──
「さて、やるか」
男たちは私を嘲笑いながら囲い込み、じりじりと中心へ追い詰めていく。
「……何をするつもりだ」
私の質問を無視して、一人の男が語り出す。
「お前、自分がなんでこのグループにいられたと思う? 話はクソつまんねぇ、ただ周りに合わせるだけの空っぽな女。そんな奴、普通はいらねぇんだよ」
男は私の髪を乱暴に掴み上げ、無理やり顔を至近距離まで近づけた。
「顔がいい。それだけだ。最初から、こういう目的以外で置いてやる理由なんてねぇんだよ。なぁ?」
周囲の男たちが一斉に下卑た笑い声を上げる。その笑いは、広い工場内に反響して、私の鼓動を激しく掻き乱した。
「やめろ! 離せ!」
必死に暴れる私を、男たちは面白がるようにコンクリートの床へ押し倒した。今朝、震える手で留めた、あのシャツのボタン──
「制服なんて、お前には似合わねぇんだよ」
無造作な力が加わり、ボタンが幾つも弾け飛んだ。床に転がる硬いプラスチックの音が、やけに鮮明に鼓膜を叩く。
「こんなことして、タダで済むと思ってんのか!私が警察に言ったら、お前ら全員終わりだぞ!」
必死に声を挙げる。体に力を入れて、抵抗も続ける。
「あぁ、だからそうさせねぇように『弱み』を握るんだよ。学生証と一緒にその無様な姿、たっぷり撮ってやるからな」
こいつらは、私が思っていたよりもずっとゲスで、救いようのない連中だ。
かつてはこの輪の中にいることが「居場所」だと思い込んでいた自分が、ひどく滑稽に思える。弱みを握って悦に浸る。そんな薄っぺらな方法でしか人を繋ぎ止められない、可哀想な奴ら。
恐怖よりも、不快感が込み上げてくる。
「……そうかよ。だが、それは口止めにならねーぞ」
床に押し付けられたまま、私は低く、冷徹な声を絞り出す。
「私の写真がネットに晒されようが、そんなもん知るか。……お前らを、絶対に道連れにして潰しにいく。覚悟しとけよ」
男は苦虫を噛み潰したような顔で口を振るわせ、眉間には深い溝が刻まれた。
「……へぇ、いい目してんじゃん。」
その瞬間、視界が激しく揺れた。
「――っ、がはっ……!」
腹部を容赦なく殴りつけられ、肺の中の空気が無理やり絞り出される。
「お前一人の覚悟なんてどうでもいいんだよ!お前が警察に行ったら、今まで撮った他の女たちの写真も全部バラ撒いてやる!お前がチクったせいで、あいつらの人生も終わるんだ!……それから──」
男は一度、息を整える。そして、私の耳に毒を流し込むよう囁いた。
「あのコンビニの店員……あいつ、無防備だよなぁ。お前が余計な真似したら、あいつが明日も同じようにレジに立ってられる保証、どこにもねぇぞ?」
「……っ、やめろ……!」
初めて、声が震えた。自分はどうなってもいい。でも、あの人だけは、そんな理不尽に巻き込みたくない。
目の前の男の醜悪な笑みに、私はただ息を詰まらせ、地面に這いつくばることしかできなかった。
その時だ。
「あはは! 真面目に書いてんの、ウケるんだけど!」
背後から、ひどく間の抜けた、それでいて残酷な笑い声が聞こえてきた。
顔を向ければ、取り巻きの一人が、いつの間にか私のカバンを乱暴に逆さにし、中身を床にぶちまけていた。そして、男の手にはノートが握られている。
隣の席の子が驚きながらも貸してくれたノートを休み時間に一文字ずつ、自分の手で書き写したものだ。友達でもない私に、あの子は「困ったことがあったら言ってね」って、あんなに優しく笑ってくれた。そんな善意でできた塊を奴が手にしている。
「……返して」
絞り出した声は、自分でも驚くほどに弱々しかった。 これでは、相手に届いたかも分からない。
「今更勉強したって無駄だぜ」
背表紙が悲鳴を上げ、そのまま引きちぎられる。筆跡は、枯れ葉のように床へ散らばっていった。
そして、男の手がクリアファイルに伸びた。
「お、これはバイトの書類か?住所も電話番号もバッチリだし、親父の名前まで書かれた書類もあるぞ。お前の親父もバカだよなぁ。こんな娘が、まともに働けると思って判ついたのか?」
「……やめて。お願い、それだけは、やめて……」
震える声で懇願する。
父が不器用な手で押してくれた、少しズレた朱色の印影。 直人先輩と約束した、あの場所へ行くための切符。
「こんなもの必要ないだろ」
男は一切の躊躇なく書類を引き裂いた。しかし、その手つきはどこまでも緩やかで、執念深い。指の中で紙片を塵へと変え、もはや元の形を留めぬそれを、静かに散らした。
「あ……」
視界に透明な水が混じってくる。
私は、こいつらの元を去って変わったつもりだった。 制服を着て、ノートを取って、バイトも始める。そんな小さいことで、新しい自分になれたのだと思い込んでいた。
でも、全然変わってなんかいない。
結局、かつての飼い主に牙を剥かれただけで、震えることしかできない。抵抗する言葉も、睨みつける気概も、一発の拳と冷たい脅し文句で粉々に砕け散った。
たった一度、決意を固めることは簡単だった。本当に困難なのは、その意志を絶やさず、守り抜くこと。
私は、変わったつもりになっていただけにすぎない。 まともな人間に化けて、一晩の甘い夢を見ていただけだ。
「やっとおとなしくなったかよ」
抵抗する力は、もう残っていなかった。心はどこか遠い場所で凍りつき、感覚が切り離されていく。
「さっさと脱がせ。泣きっ面もいいスパイスになるぜ」
卑俗な笑い声が反響する中、レンズが私に向けられた。
終わる。私の人生、ここで終わりだ。いや、始まってすらいなかったか。
自虐的な笑みを浮かべ、ゆっくりと瞳を閉じる。
刹那。
鼓膜を震わせるほどの轟音が、廃工場の空気を一変させた。重厚な鉄の扉が、外側から暴力的なまでの衝撃で蹴破られたのだ。
「笠井、遅刻すんなって言っただろ」
聞き慣れた声、場違いな言葉。 私は、弾かれたように目を開けた。




