表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
保健室登校が最高なワケ  作者: 車屋旗魚
笠井天 編
20/24

20

 夜風は思っていたより冷たかった。

 

 コンビニを出た直後は、胸の奥に残る妙な高揚感のせいで気にならなかったのに、少し歩いただけで現実に引き戻される。

 

 私は立ち止まり、家の明かりを遠目に見上げた。


 あの灯の中に、父親がいる。

 

 当たり前のことなのに、その事実だけで足が重くなる。帰りたくない場所だったはずだ。ずっと避け続けてきた場所だったはずなのに、今日は違う理由で躊躇している自分がいた。

 

 逃げずに話す。

  

 さっき、あの場所でそう宣言してしまった。

 

 直人先輩なら、明日私が「やっぱり無理だった」と笑って誤魔化したとしても、きっといつものように接してくれるだろう。誰も私を責めないし、追い詰めたりもしない。

 

 でも──


「ダサいだろ、それは」


 小さく呟き、私は家へ向かって歩き出した。


◇◇◇


 玄関のドアを開けると、安酒の匂いとテレビの音が混ざった、つけっぱなしのテレビの音が漏れてきた。


 靴を脱ぐ間も、心臓の鼓動がやけにうるさい。


 父親はソファに座り、テレビを眺めたまま缶ビールを傾けている。


「あぁ、帰ってきたか」


 私に向けられたのか分からない、独り言のような呟き。


 普段なら、それで私達家族の会話は終わる。そもそも会話と言えるものではないのだが。

 だが、今日は違う。話さなければいけないことがある。

 

 父に一歩近づく。臆して、一歩下がる。また一歩近づき、一歩下がる。傍から見れば、さぞ滑稽に映るだろう。しかし、私にとって二歩先に底なしの溝が見えるのだ。

 

 不意に、片手で持ったクリアファイルの感触に意識が向く。私は、その薄いプラスチックの塊を両手で強く、胸に押し当てるように抱きしめた。


 一歩。そして、もう一歩。


「……話がある」

 

 父親の、缶を口に運ぶ手が止まる。テレビの中では、誰かが大声で笑っている。その場違いな音が、かえって家の中の冷え切った空気を際立たせていた。


「……なんだ」


 父親は視線をテレビに向けたまま、億劫そうに言葉を吐き出した。


「バイト、したい」

 

 喉の奥から絞り出した一言。口にした瞬間、心臓が強く跳ねた。


 父親はゆっくりと缶をテーブルに置き、初めてこちらへ顔を向ける。


「お前が?」


 その目は、驚きよりも先に「どうせ長続きしないだろう」という諦めを含んでいるように見えた。少し前の私なら、その視線だけで心が折れて、言葉を飲み込んでいただろう。  でも、今は胸元で抱きしめたクリアファイルの硬さが、私の背筋を支えていた。


「そうだよ」


「学校はどうした」


「……行く」


「……」


 父の眉間に、深い皺が寄る。


「ちゃんと行くよ。その上で、働きたいんだ」


 父はしばらく黙り込み、私の顔を値踏みするようにじっと見つめていた。重苦しい沈黙。テレビの中の騒がしさが、今の私たちの間にある空白をより惨めなものにする。


「……なぜだ」


 返ってきたのは、予想外に静かな響き。 責める色はなく、ただ純粋に理由を問うている。だから、私もその問いに真っすぐ答えようとした。


「ある人に誘われてさ……でも、それだけじゃくて!……今のままじゃダメだって……変わりたいって思ったからなんだ!」


 支離滅裂でもいい。私は必死に言葉を重ねた。胸元で抱きしめたクリアファイルが、カサカサと音を立てる。  それを聞いた父は、力なく視線を落とし、小さく喉を鳴らした。


「……そうか。…………そうだな」


 納得したのか、あるいは自分自身に言い聞かせたのか。

 父はよろよろと立ち上がった。そして、棚の引き出しから一本のボールペンを引っ張り出す。


「その書類、俺が書かなきゃいけないものもあるんだろ?」


「……うん!」


 ◇◇◇


 目覚まし時計がジリジリと鳴っている。それを素早く止めて、ベッドの上で大きく体を伸ばした。カーテンの隙間から差し込む光が、埃の舞う部屋を白く切り取っている。いつもならその光を遮るように毛布を被り直すところだが、今日はそのまま床に足を下ろした。

 リビングに近づくにつれ、鼻孔をくすぐる匂いが濃くなっていく。安酒の残り香ではなく、何かが焼けた匂い。だが、その焼けた匂いに少しの苦みを感じる。私は一抹の不安を抱えながらもリビングの扉を開いた。

 まず目に映ったのは味噌汁をすする父の姿。そして、テーブルに並ぶ二人分の朝食。


 端が黒く焦げ、黄身の崩れた目玉焼きと、ウインナー。山盛りにされた白米と、湯気を立てる味噌汁。


 椅子に座り、一膳の赤い箸を手に取る。それを指をなじませるように何度か握り直した。


「いただきます」 


 目玉焼きの端は苦く、ウインナーは中心まで熱が通りきっていないのか、独特の弾力がある。味噌汁を啜れば、不揃いに切り分けられた豆腐の角が、不器用に舌を撫でた。私の容量を完全に無視して盛られた白米は、いくら食べても減っているのかさえ分からない。

 それでも、一口運ぶたびに腹の底が満たされていく感覚は悪くなかった。


 父親が先に席を立ち、流し台で自分の食器を洗い始めた。


 しばらくして、私は最後の一口を飲み込み、重くなった胃を抱えたまま、空になった茶碗を置いた。


「ごちそうさまでした」


 そこから、朝の支度を済ませていく。


 自室に戻り、クローゼットから制服を取り出す。手に取ったのは、厚手のブレザーではなく、薄手の白い半袖シャツだ。私が学校へ行っていない間に、季節は勝手に夏へと進んでいた。


 シャツに腕を通し、ボタンを留めていく。しかし、プラスチックの小さな円を掴もうとする指先が、思うように動いてくれなかった。


 一度、深く息を吐く。


 そして、一つずつ、一つずつ時間をかけてボタンを留めていった。


 鏡に映る自分は、記憶の中の自分よりも少し痩せて、顔色も青白い。けれど、久しぶりに再会した友人のように、どこか懐かしさも感じた。


 カバンを肩にかけ、中の重みを確かめながら、玄関へと向かう。


 靴を履くため、いつもは座らない玄関の段差に腰を下ろした。


 視線は下へ。ローファーのつま先へと向いてしまっている。


 だからここで、もう一度、深く息を吐く。


「……よし、行こう」


 自分にだけ聞こえる声で呟き、顔を上げ、立ち上がる。

 

 ドアノブに手をかけて、口を開く。

 

 両親が離婚してから、言ったことがあっただろうか。 いや、ない。胸の奥にずっと、しまい込んでいた言葉だ。


「……行ってきます」


 小さく、しかし確実に告げた。


 背後で、わずかに物音がする。


「……ああ」


 父親の声。 少しの間を置いて──


「行ってらっしゃい」


 扉を開く。今日は、朝の光がやけに眩しかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ