20
夜風は思っていたより冷たかった。
コンビニを出た直後は、胸の奥に残る妙な高揚感のせいで気にならなかったのに、少し歩いただけで現実に引き戻される。
私は立ち止まり、家の明かりを遠目に見上げた。
あの灯の中に、父親がいる。
当たり前のことなのに、その事実だけで足が重くなる。帰りたくない場所だったはずだ。ずっと避け続けてきた場所だったはずなのに、今日は違う理由で躊躇している自分がいた。
逃げずに話す。
さっき、あの場所でそう宣言してしまった。
直人先輩なら、明日私が「やっぱり無理だった」と笑って誤魔化したとしても、きっといつものように接してくれるだろう。誰も私を責めないし、追い詰めたりもしない。
でも──
「ダサいだろ、それは」
小さく呟き、私は家へ向かって歩き出した。
◇◇◇
玄関のドアを開けると、安酒の匂いとテレビの音が混ざった、つけっぱなしのテレビの音が漏れてきた。
靴を脱ぐ間も、心臓の鼓動がやけにうるさい。
父親はソファに座り、テレビを眺めたまま缶ビールを傾けている。
「あぁ、帰ってきたか」
私に向けられたのか分からない、独り言のような呟き。
普段なら、それで私達家族の会話は終わる。そもそも会話と言えるものではないのだが。
だが、今日は違う。話さなければいけないことがある。
父に一歩近づく。臆して、一歩下がる。また一歩近づき、一歩下がる。傍から見れば、さぞ滑稽に映るだろう。しかし、私にとって二歩先に底なしの溝が見えるのだ。
不意に、片手で持ったクリアファイルの感触に意識が向く。私は、その薄いプラスチックの塊を両手で強く、胸に押し当てるように抱きしめた。
一歩。そして、もう一歩。
「……話がある」
父親の、缶を口に運ぶ手が止まる。テレビの中では、誰かが大声で笑っている。その場違いな音が、かえって家の中の冷え切った空気を際立たせていた。
「……なんだ」
父親は視線をテレビに向けたまま、億劫そうに言葉を吐き出した。
「バイト、したい」
喉の奥から絞り出した一言。口にした瞬間、心臓が強く跳ねた。
父親はゆっくりと缶をテーブルに置き、初めてこちらへ顔を向ける。
「お前が?」
その目は、驚きよりも先に「どうせ長続きしないだろう」という諦めを含んでいるように見えた。少し前の私なら、その視線だけで心が折れて、言葉を飲み込んでいただろう。 でも、今は胸元で抱きしめたクリアファイルの硬さが、私の背筋を支えていた。
「そうだよ」
「学校はどうした」
「……行く」
「……」
父の眉間に、深い皺が寄る。
「ちゃんと行くよ。その上で、働きたいんだ」
父はしばらく黙り込み、私の顔を値踏みするようにじっと見つめていた。重苦しい沈黙。テレビの中の騒がしさが、今の私たちの間にある空白をより惨めなものにする。
「……なぜだ」
返ってきたのは、予想外に静かな響き。 責める色はなく、ただ純粋に理由を問うている。だから、私もその問いに真っすぐ答えようとした。
「ある人に誘われてさ……でも、それだけじゃくて!……今のままじゃダメだって……変わりたいって思ったからなんだ!」
支離滅裂でもいい。私は必死に言葉を重ねた。胸元で抱きしめたクリアファイルが、カサカサと音を立てる。 それを聞いた父は、力なく視線を落とし、小さく喉を鳴らした。
「……そうか。…………そうだな」
納得したのか、あるいは自分自身に言い聞かせたのか。
父はよろよろと立ち上がった。そして、棚の引き出しから一本のボールペンを引っ張り出す。
「その書類、俺が書かなきゃいけないものもあるんだろ?」
「……うん!」
◇◇◇
目覚まし時計がジリジリと鳴っている。それを素早く止めて、ベッドの上で大きく体を伸ばした。カーテンの隙間から差し込む光が、埃の舞う部屋を白く切り取っている。いつもならその光を遮るように毛布を被り直すところだが、今日はそのまま床に足を下ろした。
リビングに近づくにつれ、鼻孔をくすぐる匂いが濃くなっていく。安酒の残り香ではなく、何かが焼けた匂い。だが、その焼けた匂いに少しの苦みを感じる。私は一抹の不安を抱えながらもリビングの扉を開いた。
まず目に映ったのは味噌汁をすする父の姿。そして、テーブルに並ぶ二人分の朝食。
端が黒く焦げ、黄身の崩れた目玉焼きと、ウインナー。山盛りにされた白米と、湯気を立てる味噌汁。
椅子に座り、一膳の赤い箸を手に取る。それを指をなじませるように何度か握り直した。
「いただきます」
目玉焼きの端は苦く、ウインナーは中心まで熱が通りきっていないのか、独特の弾力がある。味噌汁を啜れば、不揃いに切り分けられた豆腐の角が、不器用に舌を撫でた。私の容量を完全に無視して盛られた白米は、いくら食べても減っているのかさえ分からない。
それでも、一口運ぶたびに腹の底が満たされていく感覚は悪くなかった。
父親が先に席を立ち、流し台で自分の食器を洗い始めた。
しばらくして、私は最後の一口を飲み込み、重くなった胃を抱えたまま、空になった茶碗を置いた。
「ごちそうさまでした」
そこから、朝の支度を済ませていく。
自室に戻り、クローゼットから制服を取り出す。手に取ったのは、厚手のブレザーではなく、薄手の白い半袖シャツだ。私が学校へ行っていない間に、季節は勝手に夏へと進んでいた。
シャツに腕を通し、ボタンを留めていく。しかし、プラスチックの小さな円を掴もうとする指先が、思うように動いてくれなかった。
一度、深く息を吐く。
そして、一つずつ、一つずつ時間をかけてボタンを留めていった。
鏡に映る自分は、記憶の中の自分よりも少し痩せて、顔色も青白い。けれど、久しぶりに再会した友人のように、どこか懐かしさも感じた。
カバンを肩にかけ、中の重みを確かめながら、玄関へと向かう。
靴を履くため、いつもは座らない玄関の段差に腰を下ろした。
視線は下へ。ローファーのつま先へと向いてしまっている。
だからここで、もう一度、深く息を吐く。
「……よし、行こう」
自分にだけ聞こえる声で呟き、顔を上げ、立ち上がる。
ドアノブに手をかけて、口を開く。
両親が離婚してから、言ったことがあっただろうか。 いや、ない。胸の奥にずっと、しまい込んでいた言葉だ。
「……行ってきます」
小さく、しかし確実に告げた。
背後で、わずかに物音がする。
「……ああ」
父親の声。 少しの間を置いて──
「行ってらっしゃい」
扉を開く。今日は、朝の光がやけに眩しかった。




