19
橙色の空が闇に飲み込まれた頃。私は街外れの、古びた公園にいた。
以前よく集まっていたコンビニ前は警官のパトロールが頻繁になったことにより、寄り付かなくなった。だから自然と、この場所だけが吹き溜まりになっていた。
複数の笑い声が響き渡る。それが今日はやけに耳についた。
誰かが冗談を言って、誰かがそれに乗っかって、弱そうな通行人をからかう。その輪の中で、私はいつものように適当に相槌を打ちながら、言葉を飲み込んでいた。
「天、おまえ最近付き合い悪いよな」
リーダー格の男が、ねっとりとした視線で私をなぞる。
「…悪いな」
「お前、またあのコンビニ行ってたんだろ? ずいぶん店員にお熱じゃん」
「別にそんなんじゃねーよ」
「なあ、あいつから金巻き上げてこいよ。最近、親の財布から金を抜くのがムズくなったんだよ。頼むわ、お前の『営業』でさ」
「……」
「いいじゃん、ヤらせるフリして引っ張れば。どうせああいう冴えない奴、チョロいだろ」
周りの男たちが、下品なニヤけ面で顔を見合わせる。
ケラケラと上がる笑い声。
嫌だ、と思った。
でも、ここで笑って流せば、また「今まで通り」の夜が手に入る。一人にならずに済む。誰かの後ろに隠れていられる。
……ダセェな、それは。
あのコンビニの白い光を思い出す。適当そうに見えて、自分の中に一本の線を引いていた、あの人の横顔も頭に浮かぶ。
ここは楽だ。何も考えず、強い側の顔をしていればいい。
だけど、誰かの後ろにいる限り、私は何者でもない。誰かが誰かを笑えば笑う側に回り、誰かが何かを壊せば止めないのが正解になる。その「空気」に従い続けるうちに、私は私が一番嫌いなタイプの人間に、少しずつ近づいていた。それが、怖かった。
居場所は、与えられるものだと思っていた。仲間に入れてもらって、守ってもらうものだと思っていた。
でも、違った。それは、ただの置き場所にすぎない。居場所っていうのは、自分で選んで、自分で立って、踏み固める場所なんだ。
胸の奥で、静かに、けれど確実に、何かが切れた。
「……抜けるわ、私」
声を出した瞬間、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「あ?」 「お前、今なんて言った?」
一瞬、空気が止まる。剥き出しの不快感が複数の視線となって突き刺さる。いつもなら身構えていたはずのその重圧が、不思議なくらいどうでもよかった。
「もうここには来ない。そのまんまの意味だよ」
「は? ノリ悪すぎだろ。カッコつけてんのか?」
ああ、そうだよ。カッコつけてるんだ。自分自身に。
「一人でいたところ拾ってもらったのは感謝してる。でも、私はもうここには居たくない。」
私はそれだけ告げて、背を向けた。
「……おい。勝手に抜けて、タダで済むと思ってんのか?」
背後で、怒りを孕んだ唸るような低い声が耳に刺さった。だが、振り返らず歩く。歩き続ける。
残してきた連中の視線がまだ背中に張り付いている気がして、少しだけ震えた。それでも誰かの影じゃない自分の足で、地面を踏みしめる。
いつしか視界の先に、コンビニの白い光が見えた。なぜだか今は、その無機質な光が少しだけあたたかく見えた。
◇◇◇
「……あ。来たか」
先輩は私に気づくと、面倒くさそうに、けれどごく自然にそう言った。まるで私がここに来るのが、当たり前の事であるかのように。
「……直人先輩」
「ん?」
「私……辞めてきた」
レジカウンター越しに向かい合う。 口に出すと、今になって少しだけ指先が震えているのが分かった。怖かった。群れから外れることも、一人になることも、さっき背中に浴びたあの不気味な視線の余韻も。
直人先輩は、普段通りで驚いた様子は見せなかった。 ただ、じっと私の顔を見て、それから小さく息を吐いた。
「じゃあ、ここでバイトしろよ」
「え?」
あまりに唐突な提案に、言葉が詰まる。
「店長がさ、人足りないってボヤいてんだよ。あいつらと離れて暇になったなら、ここで働けばいい。それに、勝手にモップがけしてる不審者がいるより、ちゃんと時給払って働かせてる方が、店としても健全だろ」
「モップがけは先輩がやらせてきたんだろ!」
「でも、最近は自分から率先してやってるだろ」
「うるせぇ! だいたい、バイトに誘う前に『学校へ行け』って言うべきだろうが!」
「……たしかに」
この人はやっぱり少しずれているなと思った。
一呼吸置いてから、直人先輩の提案について考える。いや、考えるまでもない。率直に「働きたい」と思っている自分は、もう誤魔化しようがない。
「……本当にいいのか? 私なんかが、一緒に働いても」
口にした瞬間に後悔した。それは、ひどく卑怯な問いかけだ。 「あなたがいいと言ったから、私はここにいるんだ」と、何かあったときに相手に責任をなすりつけるための、逃げ道を作る行為だ。
せっかく誘ってもらって、答えも決まっているはずなのに。
確証が欲しかった。逃げ場を失った今、誰かに「大丈夫だ」と保証してほしくなってしまった。
自分で立つと決めたはずなのに。結局私は、また誰かの影に隠れようとしている。
取り消さなきゃ。そう思って、慌てて口を開く。
「やっぱ、今のなかったことに――」
「笠井だから、一緒に働きたいって思ったんだよ」
私の言葉を遮って、先輩がさらりと言った。 あまりに真っ直ぐな言葉をぶつけられて、思考が真っ白に染まる。
「お前なら真面目にやってくれそうだしな。仕事を覚えるまで、手取り足取り教えるから。安心して働きに来いよ」
直人先輩は、こちらの葛藤なんてこれっぽっちも気づいていない様子でそう続けた。
……なんだ、この人は。 私が一人で「自分は卑怯だ」「逃げ道を作っている」なんて、泥沼みたいな自己嫌悪に沈んでいたのが馬鹿らしくなるくらい、彼の言葉は一点の曇りもなくて、温かい。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。 この人は私の「ずるさ」すら知らないまま、私の存在を丸ごと受け入れて、隣に立つことを許してくれた。
視界が少しだけ潤んで、床のタイルの反射が星みたいにキラキラと輝いて見える。
「……そっか。……うん。わかった」
ようやく絞り出した声は、少しだけ震えていた。でも、それは恐怖からじゃない。
「ただ、働くには親の承諾も必要だからな。ちゃんと話せよ」
「……うん。逃げずに話すよ。それで、学校にも行く」
全部、頑張る…頑張るよ。
「おぉ、いきなり凄いやる気だな。ちょっと待ってろ」
先輩はそう言うと、レジの奥のバックヤードへと消えていった。戻ってきた先輩の手には、数枚の書類がまとめられたクリアファイルがあった。
「はい、これ。中身よく見ろよ。他にも用意しなきゃいけない書類あるから、まとめて持ってこい」
差し出されたクリアファイルを大事に受け取る。それは、暗い崖の底へ滑り落ちそうになっていた私に、誰かが上から投げ下ろしてくれた、太くて丈夫な命綱のようで──手のひらに伝わるその確かな感触が、私の身体をこの場所に、この世界に、しっかりと繋ぎ止めてくれるような気がした。
「……直人先輩。明日、絶対に持ってくるから。客じゃなくて……店員になりに来るから」
「はいはい。遅刻すんなよ」
私はクリアファイルを胸に抱きしめるようにして、自動ドアへと向かう。
背中で聞こえる退店のチャイムが、今は私を送り出すファンファーレのように聞こえた。




