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保健室登校が最高なワケ  作者: 車屋旗魚
笠井天 編
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 蛍光灯の白い光に照らされながら、店内に流れるBGMをぼんやりと聴く。 客としてではない。かといって、店員でもない。名札も制服もない中途半端な立場のまま、私は手にしていたモップを壁際に戻した。


 こうして手伝いをすることにも、すっかり慣れてしまった。 だが、ふとした疑問が頭をよぎる。


 私をこんなふうに雑用に使って、直人先輩は怒られないのだろうか。


 他の客や店員がいるときには、決して私にモップがけなどさせない。それでも、いつか誰かに見咎められる可能性はある。けれど、当の本人はそんなことをまるで気にしていない様子だった。


 レジに肘をつき、退屈そうに店の外を眺めている。 相変わらずの、気の抜けた顔。 この人は、いったい何を考えているのだろうか。 今この瞬間だけではない。普段から、どういう基準で物事を見て、何を思っているのか。それが、どうしても気になった。


 私は視線を先輩の横顔へ向ける。 話しかけるきっかけを探すように、記憶の引き出しをゆっくりとさらった。そして、以前に交わしたあの、妙に引っかかっている言葉を思い出す。


「……直人先輩」


「ん?」


 気のない返事。視線は外に向けられたままだ。 私はすぐには言葉を続けず、ほんの僅かに間を置く。本当にこの話題を掘り返していいのか、自分でも測りかねていたからだ。


「先輩、前に言ってたよな。媚びることで上手くいくなら、それで充分だって」


「そうだっけか?」


 本気で覚えていない顔だった。わざとなのか、本当に忘れているのか。その掴みどころのなさが、いかにもこの人らしい。だが、私は構わず言葉を繋いだ。


「……その時さ、私は先輩の考えを否定したけど。今になって思うんだよ。むしろ逆だったなって」


「……?」


「ずっと媚びて、流されてるだけなのは私だった。そして、媚びることを肯定していたはずの先輩は、全然媚びたりしないなって」


 口にした瞬間、わずかに胸がざわついた。


 こんな重い話をするつもりだったのか。いや、違う。ただの軽い話題を振るつもりだったはずだ。けれど、一度外に出た言葉はもう引っ込めることはできない。


 まぁ、いいか。こちらから感情を見せなければ、相手の本音も引き出せないだろう。


 直人先輩はすぐには何も言わなかった。 相変わらず、興味があるのかないのか分からない姿勢で外を眺めている。 やがて、気持ちを切り替えるように小さく息を吐いた。


「ケースバイケースだと思うぞ」


「……ケースバイケース?」


「なんでもかんでも同じやり方で上手くいくほど、世の中単純じゃないだろ。媚びるのが有効な場面もあるし、逆の方がいい場面もある。それだけの話だ」


 あまりにあっさりしていて、少し拍子抜けする。もっと理屈っぽく語るか、あるいは適当にはぐらかされると思っていたのに。


「…そうか」


「ただ……どうしても曲げたくない軸みたいなもんはあるだろ」


 一拍置いて、「ずっと同じ軸でいろ、なんて不自由なことは言わねぇけどな」と、先輩は付け加えた。


「軸、か……」


「お前にもあるだろ。そういうの」


 そう言われて、一瞬言葉を失う。 ある。あるに決まっている。だけど――


「……あったはずなんだけどな。気づいたら、よく分からなくなってた」


 気づけば、そんな弱音が漏れていた。 群れにいれば楽だった。誰かの後ろについていけば、自分で選ばなくて済む。周りの顔色を窺っていれば、浮くことも、傷つくこともない。 でも、そうやって自分を薄めていくうちに、私の「軸」はどこかへ消えてしまった。 何が嫌で、何が許せなくて、自分はどうありたいのか。境界が曖昧になって、足元がふわふわと浮いているような感覚に慣れてしまった。


 直人先輩は少しだけ黙り込み、いつもの調子で言った。


「そんな難しく考えなくてもいいと思うぞ」


「え?」


「自分の中でカッコつくかどうか。それくらいで」


 あまりにも先輩らしい、雑で、適当で、けれど核心を突く言い方。


「自分にカッコつけられりゃ、それで十分だろ」


 その瞬間、胸の奥で何かが鋭く引っかかった。 カッコつける。他人にじゃない。自分に。


 今の私はどうだ? 誰かの影に隠れて、流されて、自分を誤魔化し続けて。


 ダサいな。


 気づけば、私は自嘲気味に小さく笑っていた。


「……先輩さ。やっぱり、よく分からん人だな」


「褒めてねぇだろ、それ」


「半分くらいは」


 答えながらも、頭の中ではその言葉を反芻していた。 自分にカッコつける。 たったそれだけの基準なのに。 どうしてこんなにも、今の私には逃げ場がないのだろう。


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