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入学したとき、私は普通の高校生になるつもりだった。
目立つつもりも、不良になるつもりもなかったし、自分から誰かに話しかけられるタイプでもなかったけど、別に孤立したいわけでもなかった。
ただ、 四月も終わりに近づいた頃、家の空気が一変した。
母親が、突然いなくなったのだ。置き手紙ひとつ残して。
理由は離婚。それ以上、父は何も説明してくれなかった。
食卓から声が消えて、テレビの音だけがやけに響く。父はイライラしていて……疲れていて、 私に構う余裕なんてなかった。
家が落ち着けない場所になると、 学校の居心地の悪さが一気に増幅される。
教室のざわめきも、ちょっとした笑い声も、 全部が自分に向けられた嘲笑に聞こえる。何気ない声にも神経が逆立つ。
母親がいなくなったことを誰にも言わなかった。 話せば泣きそうになるし、弱みを見せたら崩れてしまいそうで。だいたい、まだ関係の浅いクラスメイトに、家庭内の事情を話せるわけがない。
私はいつもピリピリしていた。 少しでも話しかけられると構えてしまうし、何をされても「舐められたくない」という感情が先に出る。
みんなは私を “話しかけにくい奴” “怖い奴” と認識した。そして気が付けば、私に近づこうとする人はいなくなっていた。それでも、ちゃんと学校に行かなければならないとは思っていた。
ゴールデンウィーク明けの朝。目を覚ました瞬間、時計を見て心臓が跳ねた。完全に寝坊だった。
もう、間に合わない。
そう思った途端、胸の奥で何かが切れた。急いで着替える理由も、走って家を出る意味も、全部どうでもよくなった。
そこからひたすらに言い訳探し。自己正当化だ。今から行ったところで、途中からの授業を聞いて理解できるわけがない。どうせ遅刻で目立つだけだし、教室に入った瞬間、あの視線を浴びるのが目に見えている。
だったら――今日は行かなくていい。
その日は昼までベットで過ごして、夕方になると「まあ明日は行くか」と思った。
でも、昼間に寝ていたせいで、夜は眠るのに時間がかかった。結果、次の日も同じ時間に目が覚めて、同じように時計を見て、同じ結論に辿り着いた。
それからは簡単だった。行かない理由を考える必要すらなく、ただ行かないことを選ぶだけになったからだ。ただ、夜に家にいるのは苦痛だった。父親は酒を飲むと声が大きくなる。テレビの音、ため息、意味の分からない説教。視界に入るだけで、胸の奥がざわついた。だから、夜だけ外に出るようになった。
歩いていると、 心の中で小さく渦巻く怒りや虚しさを少しだけ誤魔化せる。どこに行きたいってわけでもない。 ただ、家にいたくない。
歩道橋の上で立ち止まり、下を走る車のライトをぼんやり眺める。
「……何やってんだろ、私」
誰に聞かせるでもない独り言。 返事はもちろん返ってこない。
不安もある。 寂しさもある。 でも、それを誰かに言えるほど私は器用じゃない。弱いところなんて見せられない。そんなの、見せた瞬間に全部壊れそうだから。
気づけば、近くの公園に来ていた。ベンチに腰を下ろし、夜空を見上げる。星だけが私を見てくれている気がした。
◇◇◇
「今日は星が見えないな」
毎晩のように、外をうろついている。すると、同じ顔ぶれを見かけることに気がつく。同じ時間帯に、同じ公園や同じコンビニの前で。向こうも、私に気づいていたんだと思う。
「またいるじゃん」
誰かがそう言った夜、私は立ち止まった。
声をかけられるのは久しぶりで、少しだけ心臓が跳ねた。睨まれるかと思ったけど、そんなことはなかった。からかうような視線と、値踏みするような目。嫌な感じがした。でも、逃げるほどじゃなかった。
それだけで、私はそこに留まってしまった。 それから、何となく一緒にいるようになった。
特別に歓迎されたわけでもないし、「仲間だ」と言われた覚えもない。ただ、追い払われなかった。それが、思っていた以上に大きかった。
夜の家は息苦しくて、学校に行かない昼間は行き場がなくて、外にいれば、とりあえず一人じゃなくて済んだ。それだけで十分だった。
でも、違和感は少しずつ積もっていった。
誰かが通行人を睨む。誰かが大きな声で笑う。誰かがゴミを足で蹴飛ばす。そのたびに、胸の奥がざわつく。
……別に、そういうことしたいわけじゃない
口には出さなかった。ここで変なことを言えば、今度は自分が浮く側になる。それが、何より怖かった。
私は、集団の中で目立たない位置にいた。ただそこにいるだけ。強くもないし、弱くも見せない。嫌だと思っても、表情には出さない。
そうやっていれば、とりあえずは安全だった。
「お前、クールだよな」
そう言われたことがある。本当は違う。何も言えないだけだ。
誰かがタバコを回し始めた夜、私は一瞬だけ迷ってから、首を振った。
「吸わないの?」
「……いい」
理由を聞かれなかったのは、助かった。助かったけど、同時に分かってしまった。
ここでは、「どうして?」なんて、誰も本気で興味を持たない。合わせるか、外れるか。それだけだ。合わせない私は、きっとまだ内側に入ってない存在なんだろう。
それでも、離れられなかった。夜に一人で歩くより、誰かの影に隠れている方が楽だった。
家に戻る時間を遅らせられる。父と顔を合わせずに済む。そのためなら、多少の違和感には目をつぶれた。つぶっているうちに、見ないふりが上手くなった。
――そうやって私は、疑問を抱えたまま、彼らと一緒にいた。
ここが居場所だと、自分に言い聞かせながら「ここしかない」と思い込もうとしていた。




