15
バイト中、棚の前で商品整理をしていると、店の外から「おねーちゃん……」と小さい女の子の泣き声が聞こえた。
何だ?と思った矢先、コンビニの自動ドアが開く。
「直人先輩、ちょっといいか」
笠井だった。右腕には、小学1、2年生くらいの女の子がぎゅっとしがみついている。
「その子どうしたんだ?」
「そこの道で泣いてて……ほっとけねぇだろ。で、店まで連れてきた」
笠井は空いた左手で女の子の頭をそっと撫でた。その撫で方は、いつぞやエロ本でブチギレてた人と同一人物とは思えないくらい優しかった。
まあ、その時はキレさせた俺がいけないのだが。
女の子は涙の跡を頬に残したまま、おびえたような視線が俺と笠井の間で揺れている。
「ひ、ひよりの……おねーちゃん、いなくて……」
どうやら『ひより』と言う名前らしい。一人称が自分の名前であるため、聞く手間が省けた。非常に助かる。
しかし、ふと思う。一人称が自分の名前の子って、いつ頃から“私”とか“僕”とかに移行するんだ?
気付いたら勝手に変わってるような気もするし、誰かに教わって変えるものなのかもしれない。いや、でも俺だっていつ“俺”になったかなんて覚えてないし……。
と、くだらない疑問が脳内をよぎった。しかしながら、今はそんなことを考えている場合じゃない。
さて、どうしようか。
このくらいの子への接し方は、正直よく分からない。ただ、小さい子には目線を合わせた方がいいと聞いたことがある気がする。たぶん。
曖昧な記憶を頼りに、ゆっくりと近づいて、ひよりちゃんの前にしゃがみ込んだ。
「ひよりちゃん、どうした? お姉ちゃんとはぐれたのか?」
いつ、どこではぐれた?お姉ちゃんの特徴は?家は近い?
聞きたいことは様々あった。でも、まずは会話だ。焦らず少しずつ情報を整理していけばいい。
目線を合わせて声をかけると、女の子はきょとんとしたまま、俺の目をじっと見つめる。
数秒の沈黙。
そして――
「……っ!」
ガバッ、と俺の首にしがみついてきた。
「うおっ……!?」
あまりにも急で、体がびくっと跳ねた。
小さな腕が俺の首に回され、ぎゅううっと力が入る。思っていたより力が強い。
その横で笠井が「え?」と呟く。
自分にしがみついていた女の子が急に俺に飛びつき、ほんの少しだけ眉が下がっている。複雑そうな表情だ。
冗談の一つでも言ってやりたいところだが、この小さな女の子が優先だ。
迷子なら警察に連絡した方がいいのだろうか。
そう思いながら、俺はひよりちゃんの背中にそっと手を添えた。泣き止ませようとか、安心させようとか、そんな大層な目的はない。ただ、首にしがみついているこの子が少しでも落ち着けばいい、くらいの気持ちだ。
「ひよりちゃん、大丈夫だ。お姉ちゃん、一緒に探そうな」
優しく声をかけると、首を締め付けていた小さな腕の力が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……うん」
震える声。涙の跡の上に、また新しい涙がにじんでいることだろう。
とりあえずバックヤードに連れていくべきか、それとも店の入り口付近にいるべきか。
そう悩んでいるところに、コンビニの自動ドアが、再び軽い電子音を鳴らした。
「ひより!!」
鋭く、それでいて必死な叫び声だった。
その声に反応して、ひよりちゃんが俺の首のあたりからガバッと顔を上げる。
「……おねーちゃん!」
ぱっと体を離し、入口の方へ走り出す。よろけながらも全力で。
そして、店に飛び込んできたその人物を見て、俺は思わず眉を上げた。
あの人はたしか――
「……石宮先輩?」
髪は乱れ、肩で息をするその姿からは、よほど取り乱していたのだと見て取れる。
「ひより……どこ行ってたの……!」
石宮先輩はしゃがみこみ、ひよりちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「……直人先輩、この人が?」
「ああ、多分、ひよりちゃんのお姉ちゃんだな」
「そう……か」
笠井の表情がふっと柔らかくなる。自分が保護した子の家族が見つかった安堵なのか、それとも別の何かなのか。
すると石宮先輩が、ひよりを抱えながらこちらに顔を向けた。
「……あなたたちが、ひよりを保護してくれたの?」
「あ、はい。笠井が見つけて……俺はちょっと話を聞こうとしてただけで」
石宮先輩の視線が笠井に向く。笠井は、不器用に片手を挙げて言った。
「……困ってるみたいだったから。当たり前だろ」
「……そう。ありがとう」
短く、けれどはっきりと告げられたその言葉は、前に見た彼女からは想像しづらいほど素直なものだった。
笠井は、なぜか少しだけ照れくさそうに顔をそらす。
「別に……」
石宮先輩はひよりを抱え直すと、改めて俺の方へ視線を向けてきた。肩越しに小さく息を吐き、ほんの一瞬だけ躊躇するように目が揺れる。
「あなた、千晴の……知り合いよね?」
まっすぐな視線が突き刺さる。俺は軽くうなずいた。
「そうですね」
「千晴から、何か聞いてる?」
言葉の端々に探るような気配があった。俺がどこまで知っているのか、慎重に測っているような。
「いいえ」
「……そう」
短い沈黙が落ちた。石宮先輩は少しだけ肩をすくめ、呼吸を整えると、ふと俺の横に目を向けた。
「ところで隣の子は?」
笠井は突然話題を向けられて、肩をびくっと震わせる。俺は特に隠す理由もないので、そのまま紹介した。
「この子は笠井天。ヤンキーです」
「おい!」
案の定、そのヤンキーがツッコミを入れてくる。
石宮先輩は眉だけで笑ったような、しかし決して柔らかくはない顔つきで言葉を紡ぐ。
「見間違えだったらいいのだけど……あなた、ガラの悪い連中と付き合ってる?」
笠井は一瞬だけ言葉に詰まった。
否定したい気持ちと、事実としてそう見られる現状が、喉の奥でぶつかり合っているのだろう。
「……付き合ってる、ってほどじゃねぇし」
ぼそりと答える。
石宮先輩はその反応に、ふっと冷めた視線を向けた。
「まあいいわ。あなたがどういう立場でも。正直、私はあの連中の顔をもう二度と見たくないし……ただ、ひよりを助けてくれたお礼に忠告してあげる。あなたはアイツらと連むべきじゃない」
そう言い残した彼女は、妹と共に帰っていく。
去り際、ほんの一瞬だけひよりちゃんの視線を受け取った。
そこにどんな意味が込められているのかは分からない。そもそも意味なんて込められていないのかもしれない。
「なあ、直人先輩……どう思う?」
ぽつりと漏れた笠井の声は、いつもの尖った調子ではなかった。
「何がだ?」
「ひよりの姉ちゃんの言葉だ」
咬みしめた唇が少し白くなっている。視線は足元に落ちたままだ。
「実はな、石宮先輩と同じようなことを真も言ってんだ」
「そうか…」
「噂なんてあてにならないことは身をもって知っている。ただ、お前自身もどこか引っかかるところがあ
るんだろ?」
笠井はすぐには答えなかった。ほんの数秒、言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「……あいつらは腫れ物のように触れてこないんだ……腫れ物同士だからな」
自嘲するように、小さく笑った。
「共依存だな」
少し突き放した言い方になったかもしれないと思ったが、笠井は否定しなかった。
「人間そんなもんだろ。何かに依存せず生きていける人間なんて、そう多くない」
笠井は視線を落としたまま、小さく肩をすくめる。そこには妙な諦めが混じっていた。
「そうかもな。でも、それだったらせめて、依存する先はちゃんと選べよ」
「選ぶ先が……ねぇんだよ」
ぽつりと零れたその言葉には、投げやりさよりも疲労が滲んでいた。
「別に人じゃなくたっていい。実態がなくてもいいんだ。過去の栄光でも、未来への期待でも、心の拠り所になりさえすれば」
笠井はしばらく黙り込み、視線を落としたまま、靴先で地面を擦る。
「わかんねぇよ」
「……まあな」
少し間を置いてから、俺は続けた。
「でもさ。腫れてるのに、気にせずベタベタ触られたら痛いだろ」
笠井が、ほんのわずかに顔を上げる。
「無理に踏み込まないとか、距離を測るとか、そういうの全部“腫れ物扱い”って思ってんのかもしれねーけど……悪いことばっかじゃねぇと思うぞ」
踏み込みすぎない優しさもある。触れないことで、守れるものだってある。
「それにさ、腫れてんならちゃんと冷やせよ」
軽い口調でそう言ってやると、笠井は少しの間、口を噤んだ。前髪の影に表情を隠したまま、指先をいじる。
「……今、冷やしてる最中だっつーの」
そっぽを向いたその横顔は強がっているようで、どこか脆くて――耳の先だけ、ほんの少し赤かった。




