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第54章 AI_6年生を送る会にて

6年生を送る会・・・通称 六送会

AI の利用が教育現場にも入る?

授業研究会も行われるようになったとか。

教育現場ではどのように使われるのが望ましいのか?

第54章 AI_6年生を送る会にて




時間は前後してしまうが、3月初旬、卒業式よりもひと足早く6年生の卒業を祝う会が開かれる。在校生から6年生に感謝の気持ちが伝えられる会だ。内容はだいたい決まっていて5年生が中心となって会の進行やゲームなどを考える。1年生は会の冒頭に6年生と手をつないで入場する。2年生は6年生を飾る首飾りを作り、3年生は似顔絵を描く。4年生は会場の飾り付けだ。5年生はくす玉なんかも作り、盛りだくさんだ。村上先生はこの「6年生を送る会」、通称「六送会ろくそうかい」を6年生への登竜門だと呼んでいた。このプロジェクトの出来で、次年度の6年生を占うことが出来るのだとか。昨年は私たちが目一杯頑張った。6年生もたいへん喜んでくれたし、下級生のまとまりもすごくよくなった気がする。


今年は私たちが送られる番だ。そうそう、言い忘れたがこの会の最後には6年生からも感謝の出し物がある。昨年の6年生は素晴らしい歌声を披露ひろうしてくれた。まとまりのよい6年生だったし、仲も良かったのでその歌声は息もピッタリで美しいハーモニーが全校の心を震わせた。担任はもちろん、目を腫らしている者も多かった。


私たちの出し物も他の学年の出し物も極秘事項である。こっそり進めるのではあるが、3年生がストーカーっぽく担当の6年生につきまとったり(※ただし、最近はiPadに写真をダウンロードして書くので少なくなった)逆に妙によそよそしくなったりするのはこの時期ならではである。




いつものように村上と堀川が腕組みして何か考え込んでいる。机上のコーヒーも冷たくなっている。


さて、今年はちょっと毛色の違う部分が登場している。生成AIである。会の進行や出し物のアイディアなど、生成AIで出力することやはたまた似顔絵自体を生成AIに出力させてもよいかといったことを認めるか否かである。たしかに進行シナリオの文面などはこなれたものだ。似顔絵なんかはプロでも難しいレベルで、とても全体の見栄えはよくなる。しかし、新崎校長のNG!が出た。会社かなにかの宣伝イベントだったら、それこそ生成AIを活用する意義は大きいだろう。だが、ここは『教育機関』だ。データを一から集め、検討し、話し合い、吟味して作り上げていく。その過程に教育的な意味や意義があるので、その過程をすっとばしてしまったら、六送会イベントをやる意味は半減してしまう。登竜門ではなくなってしまうんだと。流行廃はやりすたりに敏感な職員の中には残念がる者もいたが、 校長の方針で進むことは全員納得、一致であった。


『不易と流行』・・・この言葉は教員の中でよく使われる言葉だ。流行に惑わされずというのはあるんだが、単に頑なに今までのやり方を踏襲とうしゅうするというのは『不易』ではない。ちなみに『不易』というのは「変わらない」という意味である。今でこそ学校の文具にはビットやヤラビックアマトなんか多く使われているが、ちょっと前までは歯磨きチューブのような形の容器に入ったフエキノリが標準だった。接着剤、のりである。(手をべたべたにしながら工作をしていたっけ)

基本的にどちらもでんぷん糊である。昔はお米をつぶしたものを使っていて、それを衣料をパリッと仕上げるために使っていたのをスズメがなめてしまい、舌を切られたっていう民話はだれでも知っているだろう。

この糊は素材がでんぷんである以上、くさったりカビたりもするし、使おうと思うと固まったりしており、使うたびに作らなくてはいけない手間のかかるものだった。それを改良して『不易』・・・いつまで使えるという意味で不易糊フエキノリとして売り出したところヒット商品となって、今でもその会社があるということだ。余談だ。


さて、何百年も続いているからそのまま残すというは、おそらく『続く意味』が年月とともに『年月そのもの』に置き換わったんだろうと思う。それだけで意味ができたのだ。ただし、盲目的に今あるから続けなくちゃいけないというは『不易』ではないはずだ。そこには必ずなんらかの意味が存在するはずだ。そう考える。実は『流行』も全く同じで、単に新しいから飛びつくのでは流行にはつながらない。これにも意味の存在がある。


生成AIが今年になってからいろいろな分野に入り込み始めた。AIに関してブレイクスルーがあったのは西暦2000年2010年頃と言われる。基礎理論は1960年頃には提唱されたいたが、当時のコンピュータはまだまだ貧弱で十分な能力を持たなかった。よって理論的にも大きく発展することはなかった。1980年台に入ると多層ニューラルネットワーク理論からディープラーニングの基礎も築かれたが、マシンはやはり非力でブレイクすることはなかった。当時は会話できるシステムもLISPなどの言語で書かれて実験はされてたが、『人工無能』などと揶揄やゆされているような状況だった。AIのブレイクスルーは2006年と定義されることが多いだろう。ジェフリー・ヒルトンなどオートエンコーダーなどを発表し、多層ニューラルネットワークを鍛えることが可能になったことで、ディープラーニングという言葉も市民権を得るようになった。2012年には画像認識コンテストでその精度と実用性が示され、世界中が注目することになる。そして、2022年OpenAI社がChatGPTを発表し、世の中への浸透が勢いを得て始まっていく。


AIは使われながらも学習を続け、発展していくが、当初は面白半分なのか悪いことを学習させる者もおり、差別を助長するようなことを言ったり、ヒトラーを礼賛らいさんするようなことを学習してストップさせられたAIもあった。


AIを鍛えるには膨大な量のデータ(教材といってよいだろう)が必要で、必要な情報を学習すればするほど精度があがった。しかし、先にあったように世の中には不適切なデータも数多く存在する。それを読み、見てよい悪いを教える(評価する)のは人間である。そこで不適切なデータも大量に学習させる必要がある。それらはアフリカなどの多くの貧しい国の者たちが低賃金でがかり出され、この仕事をさせられている。死体やレイプなどの不適切な画像を四六時中見せられ、中には精神的に異常を来す者も少なくない。私たちの社会では鳴り物入りで華々しくもてはやされているAIだが、その裏では貧しい国の貧しい人々への搾取さくしゅが行われることによって成り立っているのである。輝かしい未来の技術としてもてはやされている裏には、いつの時代にもあった『表に出ない闇』が渦巻いている・・・。


確かに一般的には便利なことが多い。(たまにウソをつくことがあるので、気を付けなければならないが)学校行事の司会進行のシナリオを作成させたり、エクセルで会の会計処理マクロを組ませたりと、手直しは必要なものの会話を続けていくとそれなりに形になっていく。映像の生成もそうだ。膨大な学習はAIにちょっとした人間味、しかも破綻はたんしない人間味を感じさせるようになってきている。否定的な意見は避け、辛抱しんぼう強く寄り添ってくれうような姿勢は不完全な人間を超えているようにも思えてしまう。それを勘違いして麻薬のようにおぼれてしまう人たちが徐々に増えている。AI無しでは生きていけないと思うほど依存性が高くなってしまったのだ。ある種、ゲームに通じる。小まめな達成感が繰り返され、ほどよく抵抗も仕組まれ、まるで麻薬のように快楽物質が体中を染めてしまうのだ。近年ではこの辺りを踏まえて依存性の少ないゲームを創ろうという人たちもいるが、現実はまだまだ厳しいといったところだ。




堀川も生徒指導上の課題を生成AIにシミュレートさせてみたことがある。生徒になって「死にたい」などの文句をいうと「はい、ご希望ならば・・」とはならない。「心配事があるのね」とか「いのちは大切なものだ」といった具合に寄り添い、丁寧に答えてくれる。「そんなのは偽善だ」とか否定しても、また「いじめているヤツを殺してやる」などと息巻いても、そんな文句の繰り返しや否定を繰り返した挑発には絶対にのってこない。あくまで気持ちに寄り添い、それなりの解決策を提案してくるのである。ここらへんは生身のカウンセラーを超えているかもしれない。徹底的に否定され、抵抗されたら、多少は顔の表情にも出てくるものだろう。それをぐっとこらえて・・・というのが生身の人間なんだと思うが、AIには全く破綻はたんがない。堀川自身も今度リアルの場で困った事案が発生したらアドバイスをうてみようと思うほどだ。実際に訓練されていない者とか若い(経験の少ない)教員よりも、寄り添う・・という面ではずっと効果的だと感じた。(ただし、平均的で模範的な回答が多いし、とんがった事例にはどうなんだろうと思う部分もあるが・・・)


確かに瀕死の患者には強力な薬は有効なんだろうが、強力な薬を与えなくなってしまったら、どうなるんだろう。回復していけば、強力な薬は必要なくなっていくはずなのに、この強力な薬無しではいられなくなってしまう・・・そんな危険性を感じてしまうのだが、杞憂きゆうだろうか?




村上は村上で、ちょっと前に話題になったゲーム、いやもうPC上の小説といったほうがいいが、『ついのステラ』を思い出していた。未来の滅びた地球上でのこと。運び屋のジュードという若者がステラという少女型のアンドロイドを依頼人のところまで連れて行くという話だ。旅するうちにこのステラというアンドロイドのAIは鍛えられ、人間性を獲得していく。(もともと人間性の強いアンドロイドだったが)ジュードもこの人間よりも人間くさいステラにまるで本当の人間のような感情を抱いていく・・・そんなお話なのだ。終末の世界なので運び屋ジュードは生き残るために人間性を否定しながら生きてきたのだが、再び人として目覚めていく。


より人間的にも見える最近のAI.。しかし、それがかえって不自然なのだ。だけれども、それを通り越すとまるで人間として違和感さえ感じなくなってしまう、と物語の中では語られている。そういう意味では、今はやはり過渡期なんだと『終のステラ』を思い出してしまったのだ。シンギュラリティは2030年頃だと予想されている。まだ余裕はあるが・・・どう発展していくのだろうか。




さて、由美子たちの出し物は寸劇と決まった。学校生活の一部を切り取っておもしろおかしく、そして感動と感謝を伝えるべく・・・。文化祭では「演劇」が消えた。まあ、木の役のが可愛そうで、桃太郎が30人もいるような過渡期を経て。学校の遊具も安全面や維持コストの観点からほぼ絶滅した。子どもを『絶滅危惧種』だという学校医の先生もいたが、もしかするとこれらはその予兆よちょうなのかもしれない。


由美子たちの寸劇は基本は先生方のあるあるが中心で、どのシーンがもっともその先生らしいか、また6年生との関わりが深いか、学年でアンケートをとり、入念な調査によって脚本作りが行われる。また、チームで役割が分担され、組織的に動いていく。チームの連携も工夫がなされ、毎日の会報で進捗状況しんちょくじょうきょうや連絡事項が伝えられ、共有される。伝わったことも質問も必ずフィードバックされる。通子も5人のトップ役員の一人として、この会報というか情報共有の責任者を担っている。極秘密裏に動けるように放課後公民館の一室を借り切って準備や練習が行えるように連絡調整をするのも通子の役目だ。由美子はシナリオと脚本の班に所属している。全体進行も含めて計画する。出し物の時間が短いだけになかなか厳しい。

シナリオが決まる前から練習に入らなければならない子もいる。新崎校長先生役の子は、けん玉の特訓に入った。一日1~2時間の練習だ。新任式でみんなをあっと言わせたあのけん玉シーンの再現である。

村上先生は体育の時間に行った護身術の授業の再現である。ここはちょっとお笑い(茶化す)場面もあり、お色気シーン、そして感動のクラス全員が感謝を伝え、お涙ちょーだい(※誤用です)のシーンへと移行する予定だ。目標!村上先生を泣かす!!!ここからクライマックスに突入し、先生方や下級生への感謝の言葉へなって、最後の大仕掛けがまっている。



本番は目標!『村上先生を泣かす!』どころか、6年生のほとんどがボロボロ状態になった。下学年の思いのこもった温かい演出に、どの6年生の胸にもギュッと締め付ける感覚がわき上がった。あまりにもボロボロと泣き崩れる6年生に村上はもらい泣きを通り越してちょっと愉快な気持ちになっていた。

まあ、お返しの6年生の出し物はさすがに素晴らしいもので短い時間ながら濃縮されたウラニウムのように臨界を超え、強烈な破壊力を示した。下級生も先生方もミキサーで振り回されるように笑いと涙、怒りと安心、覚醒かくせいと安らぎなどあらゆる感情を揺さぶられ、快い疲労感を感じて会の終わりを迎えた。


ここまで到達するとあとはほぼ卒業式を迎えるだけとなり、最後の仕上げに入る。6年間の集大成だけに村上はりきを入れる。一挙手一投足いっきょゆいっとうそくまで完璧かんぺきを目指す。いや、それを目指す卒業生たちに答えようとするといった方がよいのかもしれない。単なる「起立」や「礼」、証書の受け渡しなのだが、きりっとした姿勢が一斉にそろうと見るものに感動を与える。よくもここまで育ったって。

もう、いくらも時は残されていない。


AIと学校教育・・・読書感想文を書かせることがかなり話題となったような気がします。


AIが道具であればそれを使いこなすかこなせないかで評価も分かれると思います。完璧にAIを使いこなせれば、それもいいんじゃないでしょうか。ただし、それが本来の目的を逸脱しないのであれば。


6年生を送る会って、今でも教育現場では行われているのでしょうか?準備の時間が確保できるのかな。



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