第1話:「10センチの隙間」2
小林は事務所の狭い階段を下り、雲一つない初夏の快晴の中に踏み出した。
平日の昼下がりということもあり、駅前の賑やかなレンガ敷きのアーケード街を少し外れると、行き交うのは買い物袋を下げた主婦や、犬の散歩をする老人ばかりだ。春の余韻を惜しむように吹き抜ける風が、街路樹のハナミズキの鮮やかな緑を揺らし、用水路沿いの遊歩道には、夏を先取りしたような眩しい木漏れ日が躍っている。歩いていると、首筋にじんわりと汗が滲むような陽気だった。
一方、その頃。私は涼しい事務所のソファで、新しく淹れたカフェオレを飲みながらのんびりとノートパソコンに向かっていた。すると、静かな室内に小林からのビデオ通話の着信音が鳴り響いた。画面を開くと、太フチのメガネを少し汗で滑らせた小林の顔が映し出される。背景には、鬱蒼とした不気味な洋館が映っていた。
『なぁ、林先生。現場に着いたよ。ここ、人が住んでるのか空き家なのか、外見からは見極めがひどく難しい絶妙な佇まいなんだ。売地の看板も出てないのに生活感がない。不自然極まりないよ』
「ほう。いわくつきの物件か、あるいは現在進行形でヤバい奴が潜んでいるかだね。小説の描写の参考にするから、もっと実況してくれ」
『作者なんだから自分で来ればよかったのに……。ほら、結衣ちゃんが言っていた通り、本当に二階の窓が十センチだけ開いてる。ちょっと庭に入ってみるよ』
小林は生垣のわずかな隙間から、猫のように器用に敷地内へと潜り込んだ。画面が小刻みに揺れ、泥のついた地面が映し出される。小林は身を屈めて地面を凝視し始めた。
『あったよ、マイちゃんの足跡だ。床下の通気口に向かって伸びてる。……あ、待って。今、猫の足跡のすぐ近くの泥の中から、何か真新しい小さな筒を拾ったんだけど……うわ、めっちゃシトラスの良い香りがする』
「リップクリームかい?」
『そう、有名ブランドのロゴが入った高級オーガニック仕様だ。……繋がったぞ、林先生! これは猫探しなんかじゃない、もっとドロドロした「大人の愛憎劇」だ! この空き家は、地元の有力者が「若い愛人」と密会するために買い取った秘密の隠れ家なんだよ! あの十センチ開いた窓は、愛人が男に向けて放ったサインに違いない! そして猫は、その部屋から漂ってくるリップの美味そうな匂いに釣られて下で鳴いていたんだ!』
「……もの凄い誇大妄想だね。32歳独身男の悲しい性というか、下世話な空想をさせたら君の右に出る者はいないよ」
『完璧なロジックだろ! つまり、マイちゃんがいなくなった三日前、その密会現場で凄惨な修羅場が繰り広げられて、ターゲットは今も空き家で監禁されて――』
『フギャアアアアアアアアーーーッ!!』
小林が画面の向こうで『監禁』と言いかけたその瞬間、凄まじい大音量の絶叫がスピーカーから鳴り響いた。驚いて飛び退いた小林の目の前、すぐ近くの床下通気口の暗闇から、凄まじい勢いで「三色の毛玉」が飛び出してきた。マイである。
完全に毛を逆立て、シャーシャーと威嚇するマイの目は血走っていた。
『ま、マイちゃん!? 落ち着い、フギャッ!?』
小林が慌てて両手を差し出した瞬間、マイの鋭い爪が空中を鋭く裂いた。無慈悲な一撃が小林の鼻先を直撃し、探偵は情けない悲鳴を上げて尻もちをつく。その衝撃で、画面の向こうの太フチのメガネが完全に横へとズレ落ちた。さらにマイは小林の顔を思いきり踏み台にして跳躍し、画面は完全にベタッと泥の地面を映し出した。
『痛えええっ! 痛い痛い! メガネが! 鼻が!』
「おい、小林! 大丈夫か!? 画面が泥しか映ってないぞ!」
『フシューッ!』とひと鳴きしたマイの足音が遠ざかり、ようやく小林が泥だらけのスマホを拾い上げた。お気に入りのブラウンのベストを埃まみれにして、ズレた太フチのメガネを直しながら、鼻の頭から血を流している。
『……林先生』
小林は痛そうに鼻を押さえ、曲がったメガネの奥から恨めしそうな目で画面を睨んだ。
『愛人の女性は、随分と爪が鋭くて凶暴なタイプだったみたいだね』
「皮肉を言っている場合か。さっさと向かいのコンビニで傷を洗いなさい」




