第1話:「10センチの隙間」3
「痛たた……。林、僕の綺麗な鼻の頭が大変なことになってるんだけど」
「お前は一箇所で済んだからいいだろ。私は両頬にがっつり平行線だ。これじゃあまるで、締め切りに追われて発狂した猫ひげ探偵じゃないか」
私たちは互いの顔の傷を押さえ、お互いの歪んだメガネの位置を不格好に直しながら、洋館の真向かいにあるコンビニへと転がり込んだ。自動ドアが開いた先のレジカウンターの奥から、なんとも覇気のない声が聞こえてくる。
「いらっしゃいませ……」
名札には『佐藤』とある。紺色のコンビニ制服を着た、17歳くらいの男子高校生だ。少し気弱そうな顔立ちをしており、手持ち無沙汰にレジのタッチパネルの端を爪でいじっている。
「合計で、七百八十円になります」
「あ、電子マネーで。……あと、ちょっとお兄さん、聞きたいんだけどさ」
小林はスマホを決済端末にかざしながら、何気ない風を装って窓の外を顎で指した。
「向かいにある、あの古い洋館さ。あそこって、今誰か住んでるの? さっきちょっと二階の窓が開いたような気がしたんだけど」
その瞬間、レジの高校生の指先がピクリと跳ねた。あからさまに肩がビクッと震え、泳いだ視線が私たちの顔に刻まれたホヤホヤの猫傷と、歪んだメガネへと注がれた。
「え、あ、あそこですか……? さあ、知らないです。あそこは、もう何年も空き家ですから……。人が中にいるなんて、絶対にないと思います」
高校生は早口でまくし立てると、逃げるようにレジ袋に消毒液を詰め込み始めた。その動揺の仕方は、誰が見ても不自然極まりない。
「ふうん、空き家なんだ。看板も何も出てないから、てっきり誰か住んでるのかと思ったよ」
「いえ、別に……。ただ、あそこに住んでいたおばあさんが、数年前に体調を崩して病院に入院しちゃってからは、ずっと誰も住んでいないって、近所でも有名なので……」
彼はそこまで一気に喋ると、ハッと我に返ったように口を噤んだ。小林はレジ袋を受け取りながら、高校生の制服の襟元から覗く半袖のカッターシャツをじっと見つめた。それは、さっき事務所にやってきた結衣ちゃんが着ていたものと完全に同じ、都立〇〇高校の制服だった。
「ありがとね、佐藤くん。助かったよ」
小林がそう言ってレジを離れ、私たちがイートインスペースの隅で消毒液を塗りたくっていると、ちょうど佐藤くんのシフトが終わる時間になったらしい。奥から別の店員が出てきてレジを交代した。
佐藤くんはバックヤードで私服の都立高校の制服(スラックスとカッターシャツ姿)に着替えると、通学カバンを肩にかけてお店の自動ドアから外へと出ていった。
お店を出た直後、佐藤くんはポケットからスマートフォンを取り出そうと、カバンをガサゴソと漁り始めた。その拍子に、カバンのポケットに入っていた四つ折りの紙切れが、ひらひらとアスファルトの地面へと滑り落ちた。佐藤くんはそれに気づかないまま、歩き去っていってしまう。
「おい、佐藤くん! 落とし物……あ、行っちゃった」
私が声をかけたが届かなかった。小林がスタスタと歩み寄り、地面に落ちたその四つ折りの紙を拾い上げる。
泥を払って紙を開いた瞬間、小林は太縁のメガネの奥の目を丸くした。
手渡された紙を見て、私も細縁のメガネの位置を直した。それは、ついさっき結衣ちゃんのカバンから覗いていたものと全く同じ、都立〇〇高校の『数学Ⅱ・中間考査解答用紙』だった。そしてそこには、赤ペンでデカデカとこう書かれていた。
【2年3組 佐藤】
小林は歩き去る佐藤くんの背中を見送ると、小さな声でボソリと呟いた。
「林。僕たちの美しい『大人の愛憎劇プロット』は、どうやらゴミ箱に捨てることになりそうだ」
「え? どういうことだ。あの高級リップクリームはどう説明するんだ?」
「まだそこまでは分からない。でもね、あのコンビニ店員の佐藤くん、結衣ちゃんと全く同じ『2年3組』の同級生だ。そしてあの洋館の家主が入院中だという個人的な事情に、なぜか妙に詳しかった」
小林は太フチのメガネをくいと上げ、窓の外の薄暗い洋館を凝視した。
「あの家に何かが隠されているのは間違いない。そしてそこには、同じクラスの佐藤くんが深く関わっている。……一度事務所に戻って、作戦を練り直そう。明日、彼が学校を終える放課後の時間を見計って、もう一度あの洋館の様子を確かめに行くぞ」
*
翌日の夕方。昨日と同じように、春にさよならを告げた空が、夏を追いかけるような心地よい風を街に運んでいた。
私たちは放課後の時間帯を狙い、再びあの洋館の正面玄関へ向かった。小林がドアノブを回すと、鍵は昨日と同じようにかかっていない。静まり返る古い階段を上り、十センチだけ窓が開いた二階の子供部屋へと突入する。
するとそこには、予想通り、学校帰りに制服のまま忍び込んでいた佐藤くんが、窓の外を見つめたまま立ち尽くしていた。
「うわっ!? な、なんで……!?」
「やあ、佐藤くん。放課後の見張り番、ご苦労様」
小林が少し偉そうに胸を張って話しかけると、佐藤くんは私たちの顔にベタベタと貼られた絆創膏をじっと見つめ、それからひどく困惑したように声を漏らした。
「……あの、違いますけど。っていうか、昨日僕のばあちゃんの家の庭に勝手に入り込んで、猫に襲われて悲鳴上げてたの、おじさんですよね? 不審者なのはどっちですか」
「うぐっ……!」
痛いところを突かれ、小林は太フチのメガネを大きく歪ませて絶句した。隣で聞いていた私も、細フチのメガネの奥の目を泳がせる。客観的に見れば、私たちはただの『鍵がかかっていないのをいいことに二階まで侵入してきた変質者』でしかない。
「あ、あはは、お兄さん一本取られたね。……あ、これ、昨日君がカバンから落としたテスト用紙ね。はい、返却」
小林は気まずさを誤魔化すように、ブラウンのパンツのポケットから昨日の解答用紙を差し出した。佐藤くんは「あ、ありがとうございます……」とそれを受け取りつつも、怪訝な顔を崩さない。
「ここ、僕のおばあちゃんの家なんです。おばあちゃん、今、病院に入院してて……認知症も進んじゃって、僕のことも時々分からなくなるんです。だけど、数日前からずっと『マイに会いたい。夕方四時に、いつもの場所で私を呼んでくれているの』って悲しそうに言うから……」
佐藤くんは、ぎゅっと拳を握りしめた。
「おばあちゃん、入院する前は毎日夕方四時に、あの新緑の用水路沿いの遊歩道を散歩するのが日課だったんです。そこでいつも、大切な『マイさん』っていう女の人の散歩友達とベンチでお喋りをしてたって聞いて。だから僕は、そのおばあちゃんの友達のマイさんって人を見つけて会わせてあげたくて、毎日ここから外を見張っていました」
「なるほどね。おばあちゃんの家、だから売地の看板がなかったんだ」
小林は太フチのメガネの奥の目を細め、どこか納得したように大きく破顔した。
「小林、気づいてたのか?」
「確信はなかったよ、林先生。でも、近所の空き家の事情にしては詳しすぎたからね。……少年。君が人間の女性だと思って探していた、おばあちゃんの散歩友達の『マイさん』。そして、名前を知らないまま優しさから十センチの窓を開けて迎え入れようとしていた、その三毛猫。……両方とも、同じ存在だよ」
「え?」
小林が指差した先――部屋の片隅、古いクローゼットの床板の隙間から、聞き覚えのある微かな鳴き声が聞こえた。
『にゃ~ん』
「あッ! マイ!」
私が駆け寄って床板を持ち上げると、そこからひょっこりと、三色の毛並みを持った猫が顔を出した。
一昨日庭で小林を急襲した後、床下の奥を通って、このお気に入りのクローゼットの裏に逃げ込んで挟まっていた(というか、怖くて出てこられなくなっていた)らしい。
林が昨日から事務所でずっと待機してもらっていた結衣ちゃんに連絡を入れてから、十五分後。
息を切らせた結衣ちゃんが、洋館の二階へと駆け込んできた。
「マイっ! よかったぁ……!」
結衣ちゃんは小林の腕からマイをひったくるように抱きしめ、その小さな頭に何度も頬を寄せた。マイもまた、安心したように『ゴロゴロ』と喉を鳴らしている。
ひとしきり愛猫を撫で回した後、結衣ちゃんは部屋の隅で小さくなっている同級生に気づき、目を丸くした。
「あれ? 佐藤くん……?なんでここにいるの?」
「あ、いや……その、結衣ちゃん……」
佐藤くんは耳まで真っ赤にしながら、しどろもどろになりつつも、入院中のおばあちゃんのこと、人間の「マイさん」だと勘違いして見張りをしていたこと、そして、その傍らで名前を知らないまま、この三毛猫のために窓を十センチ開けて待っていたことを、ぽつりぽつりと打ち明けた。
「おばあちゃん、本当に毎日『マイに会いたい』って寂しそうに言うから、僕、どうしても会わせてあげたくて。……これ、おばあちゃんとの写真なんだけど」
佐藤くんはポケットからスマートフォンを取り出すと、照れくさそうに画面を結衣ちゃんに見せた。
その待ち受け画面に映る、車椅子に乗って微笑む優しそうなおばあさんの顔を見た瞬間、結衣ちゃんは「あっ!」と大きな声をあげて、目を輝かせた。
「このおばあちゃん……! 私の散歩友達の、おばあちゃんだよ!」
「ええっ……!?」
「そうだったんだ! おばあちゃんが言ってた『マイ』って、人間の友達じゃなくて、私の飼い猫の『マイ』のことだったんだよ! 私、毎日四時にあの用水路の遊歩道で、おばあちゃんと一緒にマイを真ん中にして、日向ぼっこしながらお喋りしてたの。おばあちゃん、いつもマイ、マイって、すっごく可愛がってくれてたんだもん!」
「じゃ、じゃあ、おばあちゃんが探してたマイって……この猫のことだったのか?」
「うん!……そっか。佐藤くん、おばあちゃんのために、ずっと窓を開けて待っててくれたんだね」
ようやくすべての勘違いが解け、二人の視線が真っ正面から交錯した。佐藤くんは、自分の壮大なマヌケさと、巡り巡って辿り着いた優しい真実に、顔を真っ赤にしてへたり込んだ。
そんな佐藤くんの前に、結衣ちゃんはマイを片手で器用に抱き直すと、もう片方の手を差し出し、とても嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ、佐藤くん。今度の日曜日、私もその病院にマイを連れて、佐藤くんのおばあちゃんに会いに行っていい?」
「えっ……? いいの?」
「うん! だっておばあちゃん、マイに会えたら絶対に元気になって喜ぶよ。それに……マイを私に引き合わせてくれたのも、こうして窓を開けて待っててくれた佐藤くんだしね」
結衣ちゃんがはにかむように微笑むと、佐藤くんは一瞬言葉を失い、それから弾かれたように「ありがとう!」と、世界で一番嬉しそうな笑みを浮かべた。
佐藤くんの手元からは、おばあちゃんへのプレゼントだった高級リップクリームが覗いていた。小林はそれを見て、「なるほど、だからあのリップがここに落ちていたんだね。君、おばあちゃんを優しく待っている時に、うっかり窓から落としたんだろ」と悪戯っぽく微笑み、佐藤くんに手渡した。
三毛猫のマイが、まるでお互いの名前も知らなかった二人の心を繋ぐ『完璧なキューピッド』となったような、あまりにも初々しくて眩しい、最高のハッピーエンドの光景がそこにあった。
……その光景を、部屋の壁際に並んでじっと見つめていた、鼻の頭に絆創膏を貼った探偵と、両頬に平行線の傷を作った作家は、同時に深いため息をついた。服装やメガネがそれなりに爽やかで知的であるぶん、ボロボロになった顔とズレたメガネの悲惨さがシュールに浮き彫りになっている。
「……おい林、これ完全に青春ラブコメの第一話じゃねえか。僕たちがボロボロになって猫に引っ掻かれたのは、この十七歳のラブコメの引き立て役になるためだったのか?」
「……私に言うな。最悪だ。甘酸っぱすぎて三十二歳の胃壁がボロボロに溶けそうだ。おい小林、さっさと撤退するぞ」
「賛成だ。お幸せにな、少年少女」
私たちは背を向け、手をひらひらと振りながら、夕日色に染まる洋館を後にした。
雑居ビルへと戻ると、一階の古書店の店主が、ガラスコップに並々と注がれた自家製の冷たい梅ソーダを二つ、トレイに乗せて階段の踊り場で待っていてくれた。
「お疲れさん。ずいぶん手ひどくやられたようだね」
「聞いてくださいよ、マスター。僕たちの美しい『大人のドロドロ事件プロット』が、ただの眩しすぎる青春の踏み台にされたんです」
小林はそうボヤきながら、冷たいガラスコップをひったくるように受け取った。
春にさよならを告げた空が、少し長い夕日を降らせて、本の山で埋め尽くされた二階の事務所を茜色に染めていきます。私たちは炭酸の心地よい刺激に喉を鳴らし、互いの歪んだメガネの位置をもう一度だけ直しながら、自分たちの十七歳の頃の、何も起きなかった暗黒の記憶に、遠い目を馳せるのだった。
(第1話・完)




